第1章 10年ぶりの再会
【嵐電の揺らぎと、鳴滝の六法全書】
平成8年の秋。東京での地獄のような日々を生き延びた上林美智子は、関西へ戻り、かつての恩師から聞いた僅かな手がかりを頼りに、進が暮らす京都の街を目指していた。
美智子は四条大宮の駅から京福電気鉄道——通称「嵐電」の小さくレトロな一両列車に乗り込んだ。
ガタゴトと住宅街を縫うように走る車窓を眺めながら、北野線へと乗り換える。
辿り着いたのは、「鳴滝」という静かな無人駅だった。
駅を降り、案内された古いアパートのインターホンを押す。少しの間の後、重い鉄の扉が静かに開いた。
「……上林、先輩?」
そこに立っていたのは、まぎれもない伊崎進だった。
20代半ばを過ぎた進は、かつての詰め襟の学ラン姿からは想像もつかないほど、精悍で、どこか哲学的な大人の男の雰囲気をまとっていた。
部屋の奥には、手垢で真っ黒に汚れた分厚い六法全書や、幾度も読み返された法律の専門書が天井まで届きそうな棚に整然と並んでいる。
定時制高校にいた頃のように実直に、けれどあの頃とは比べものにならないほどの重圧の中で、彼が孤独に机に向かい続けてきたことが一目で分かった。
「突然ごめんなさい、伊崎君。……先生たちに、まだ京都にいるって聞いて」
美智子は大きなカバンを抱え、少し照れたように岡山市街地のイントネーションで微笑んだ。
150センチの小さな身体はあの頃のままだったが、その瞳には東京での過酷な経験を生き抜いてきた女性の強さが宿っていた。
進は驚きに目を見張りながらも、持ち前の生真面目さで美智子を部屋へと迎え入れ、温かいお茶を淹れた。
美智子は、東京での苦しい生活、そしてあのサリン事件の朝に命を救われたこと、自分の人生において本当に大切で、決して裏切らなかった人が誰だったのかに気づいたことを、一気に語った。
そして、「私、これからは伊崎君の近くにいたい。ここで、一緒に暮らせないかな」と、真っ直ぐに進を見つめた。
しかし、進は静かに湯呑みを置くと、ゆっくりと首を振った。
「……嬉しいです、先輩。でも、今の僕には、誰かと同居して家庭のようなものを持つ資格も、心の余裕もありません」
進の声は、徹頭徹尾、論理的で冷静だった。
「僕はまだ、司法試験の受験生です。黎明大学を卒業してからも、この狭い部屋にいるときは、法律のことだけを考えて生きています。実家からの援助もなく、自分で生活費を稼ぎながらの戦いです。もし今、先輩をこの部屋に迎えてしまえば、僕は自分の勉強に集中できなくなるかもしれないし、先輩を経済的に支えることもできない。それは、お互いにとって決して良い結果にはなりません」
かつて早川から叩き込まれた「誰かを好きになるのは勝手だが、他人に迷惑をかけてはいけない」と言われた。
その考え方は、進に根付いていた。
それがやんわりと、しかし強固に同居を拒絶させたのだ。
【十年目の白い布と、二人の歩幅】
進の拒絶を聞いても、美智子は取り乱さなかった。
かつてのように手をバタバタと泳がせることもなく、ただ静かに大きなカバンを開けた。
「分かってるよ、伊崎君。お邪魔にするつもりなんてないの」
美智子がカバンの奥から取り出したのは、小さく、丁寧に畳まれた一枚の白いハンカチだった。
それは十年前、鶴橋の駅前で、傷だらけの美智子に進が手渡した、あの信州の鹿沢の家で君枝が託してくれたハンカチだった。
何度も洗濯され、少しだけ生地は薄くなっていたが、大切に、大切に守られてきたことが一目で分かった。
「これね、東京の辛いアパートにいるときも、ずっと私のお守りだったんだよ。同居が無理なら、側に行くだけでいいの。私は京都で自分で仕事を見つけて、自分でアパートを借りる。伊崎君が六法全書を睨んでいる間、私は邪魔をしないように、ただ近くで伊崎君の頑張りを見守らせてほしいの」
差し出された白いハンカチを見つめた瞬間、進の胸の奥に眠っていた、彼女への断ち切れぬ想いが、一心の炎となって燃え上がった。
彼女は、あの約束を捨てていなかった。
十年の放浪の末に、ボロボロになりながらも、自分が渡した誠実さの証明を握りしめて、ここまで歩いてきてくれたのだ。
進の目から、一本気な涙がすっと一筋、頬を伝って流れ落ちた。
その涙を拭おうとしたとき、美智子が進をまっすぐに見つめて言った。
「……ねえ、伊崎君。もう、私のこと『美智子』って呼んでほしいな」
「えっ……」
進は涙を流したまま、一瞬できょとんとした顔になった。
長年「上林先輩」「上林さん」と呼び続けてきた生真面目な彼にとって、それはあまりにも高いハードルだった。
「い、いきなりそれは……それはちょっと、難しいです」
思わず口籠もる進の様子を見て、美智子は小さく吹き出し、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ、やっぱり? それなら……『美智子さん』にする?」
進は耳まで真っ赤にしながら、コクンと小さく頷いた。
「あとね、その丁寧な言葉も、もうやめよう?」
美智子は湯呑みを両手で包み込みながら、少し遠い目をして、かつての記憶をぽつりぽつりと語り始めた。
「私ね、ずっと誰にも言えなかったんだけど……館谷君のときさ、付き合いだして本当にすぐ、あっちからタメ口になったでしょ? あのとき、実は私、すごく引いちゃってたんだよね。なんだか、私の境界線の中にドカドカと土足で踏み込まれたみたいで、怖かったの。でも、伊崎君はいつも、どんなときも私を尊重して、一歩引いて、丁寧に接してくれた。それがすごく嬉しかったの。……だからこそ、これからは二人で、対等な言葉で新しくお喋りしたいなって思うんだよ」
美智子の言葉が進の胸の奥に優しく染み渡っていく。
館谷のように強引に奪うわけでもなく、狭間のようにお互いの生活に押し潰されるわけでもない。
お互いの歩幅を尊重しながら、少しずつ、新しく言葉を紡いでいく。
それが、十年の回り道を経てたどり着いた、二人の本当の距離感だった。
「……分かった。美智子、さん。……敬語、少しずつ、直していくよ」
少し不自然に、けれど精一杯の誠実さを込めてタメ口を交ぜた進の言葉に、美智子は今日一番の、本当に嬉しそうな笑顔を咲かせた。
窓の外、鳴滝の静かな夕暮れの中に、嵐電の踏切の音が遠く優しく響いていた。
かつて小学生の妹が口にした「すー兄ちゃんのお嫁さんになる人」という突飛な予言が、長い、長い苦難の時を超え、平成の京都の空の下、確かな現実へと向かって、ゆっくりと、しかし二人の確かな歩幅で動き出そうとしていた。




