第5章 10年の時を超えて
【10年目の邂逅、変わらない学び舎】
地下鉄サリン事件のあの地獄のような朝から、しばらくの時が流れた。
九死に一生を得た上林美智子は、東京での不安定な生活に区切りをつけ、再び関西の地へと戻っていた。
様々な職を転々とし、男たちに振り回され、傷つきながらも、二十代後半となった彼女の心には、あの激動の十代を過ごした大阪の記憶が、かつてないほど鮮明に蘇っていた。
そしてある秋の日の放課後、美智子は意を決して、10年ぶりに母校である定時制高校の門を潜った。
そこは私立高校ということもあり、公立に比べて教師の異動が極めて少なかった。
夕暮れ時、懐かしい校舎に一歩足を踏み入れると、廊下に行き交う生徒たちの姿は変わっていたが、職員室の重い扉の向こうには、かつて二度も寮を脱走した自分を根気強く、時に厳しく、時に温かく支えてくれた当時の担任教師が、当時と変わらぬ実直な姿で机に向かっていた。
「おや……上林じゃないか! よく戻ってきたな」
眼鏡を上げた担任教師は、見違えるほど落ち着いた大人の女性になった美智子の姿を見て、我が子を迎えるように目元を綻ばせた。
美智子は、東京で職を転々としながらもなんとか生きてきたこと、そしてあの地下鉄の事件で危うく命を落としかけたことなどを、早口で、しかし昔のように手をバタバタと泳がせることなく、静かに報告した。
ひと通りの昔話が落ち着いた頃、美智子は胸の奥でずっと温め続けていた、一番知りたかった名前を口にした。
「あの……先生。伊崎君……伊崎進君のその後って、何か聞いていらっしゃいますか?」
【黎明のその後、京都に残る背中】
「伊崎か……」
担任教師は、職員室の奥の進路指導の棚に目をやった。
当時の教頭先生が黎明大学出身で、進の快挙に男泣きしていたあの春の光景は、今も職員室の語り草になっていた。
「いや、実はな、彼からは卒業後に詳しい近況報告は届いていないんだよ。ただ、持ち前のあの生真面目さで、難関と言われた黎明大学の法学部を無事に四年間で卒業したということ。そして、卒業後も実家のある長野へは戻らず、今もずっと京都の街に住み続けているということだけは、風の噂で聞いている」
京都に、まだいる。
美智子は、自分の胸の鼓動がにわかに速くなるのを感じた。
10年前の春、鶴橋の駅前で「僕も、同じ気持ちで上林さんを見ていました」と告げてくれたあの少年が、今や立派な法学士となり、古都のどこかで生きている。
美智子は、少しだけ声を震わせながら、最も気になっていた核心を尋ねた。
「あの、伊崎君は……その、もうどなたかと、ご結婚されているんでしょうか。それとも、お付き合いされている方とか……」
職員室の周りの教師たちも、進の熱心な仕事ぶりと凄まじい受験勉強の背中を覚えていたのだろう。
一人のベテラン教師が、美智子の問いに苦笑いを浮かべながら答えた。
「彼女がいるかどうかまでは、さすがに僕らも知らないなぁ。でもね、上林さん、結婚はしていないはずだよ。何しろ彼は、大学を卒業してからも、あの日本一難しいと言われる『司法試験』の勉強を、今もずっと一人で続けているはずだからね。そんな余裕は、とてもじゃないがないと思うよ」
司法試験。
その言葉の重みに、美智子は息を呑んだ。
あの頃、偏差値32から這い上がり、美智子を失った喪失感をすべて教科書への熱量に変えて黎明大学を掴み取った進の執念。
彼は十九歳で学校を卒業した後も、何一つ変わることなく、自らの人生を賭けた壮大な挑戦を、京都の片隅で実直に、孤独に、継続していたのだ。
【覚悟の決断、時を超えるハンカチ】
「そう、ですか……。まだ、頑張っているんですね、伊崎君は」
美智子は、カバンの中に大切に仕舞われている、あの一枚の白い布にそっと触れた。
信州の小学生の妹が『すー兄ちゃんのお嫁さんになる人に応援で』と託し、傷だらけの自分を進が手渡してくれた、あの不器用な誠実さの塊。
館谷は自分の弱さから逃げるように夜逃げし、狭間は自分の生活を守るために去り、東京の婚約者は家庭のイメージが持てないと自分を拒絶した。
誰もが自分を置いて前へ進んでいく中で、伊崎進だけは、十年前のあの日から、何一つ変わらない生真面目さで、自分の目指した山を登り続けている。
今の自分なら、あの時の彼の気持ちに、ちゃんと真っ正面から向き合えるかもしれない。
これまでの放浪の人生で、自分もまた、人の痛みが分かる大人の女性になれたはずだから。
美智子は立ち上がり、担任教師に向かって深く頭を下げた。
「先生、ありがとうございました。私、京都へ行ってみます。伊崎君に、会いに行きます」
「おお、そうか」担任教師は力強く頷いた。「あいつは頑固だからな、きっと今も京都のどこかで、机に向かって六法全書を睨みつけているはずだ。会ってやってくれ」
秋の夕暮れ、校門を出た美智子の足取りは、かつての「トントントントン」と焦るように走る少女のものではなかった。一歩一歩、大地の感触を確かめるような、確かな大人の歩幅だった。
京都の黎明の光を目指して。十年の時を経て、傷だらけの二人の運命の糸が、ついに本格的に交錯しようとしていた。
美智子は前をしっかりと見据え、京都へと続く列車の駅へ向かって、静かに歩みを進めた。




