第4章 破綻した東京での美智子の生活
【砕かれた約束と、熱に浮かされた朝】
婚約という固い約束は、ある日突然、音を立てて砕け散った。
「すまない、美智子。君とは、どうしても温かい家庭を築くイメージが持てないんだ」
男から告げられた冷徹な断絶の言葉。
美智子は、家事ができない。
外での仕事も続かない。
偏食も酷い。
男は、しっかり者の妻と堅実な家庭を築きたかったのだ。
その失恋は、館谷や狭間の時とは比べものにならないほど、美智子の生きる気力を根こそぎ奪い去った。
アパートの部屋で家事すら手につかず、新しく始めた仕事も長続きしない。
(私は、この社会のお荷物なんじゃないか……)
美智子は自己嫌悪という名の深い泥沼に、独りきりで沈んでいた。
耐えかねた彼女は、岡山で暮らす父親に電話をかけた。
美智子の両親も、進の家庭と同じように早くに離婚しており、彼女は父親の男手一つで引き取られ、育てられてきたのだ。
しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、慰めの言葉ではなかった。
『お前は昔からそうだ。いつも途中で投げ出して、職を転々として。今回だって、お前の方に悪いところがあったんじゃないんか。親を頼るな。もう少しだけ、歯を食いしばってがんばってみろ』
厳格な父親の突き放すような言葉に、美智子は「……ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で呟き、何も言い返せないまま受話器を置いた。
東京の狭いアパートで、完全に天涯孤独になったような絶望が彼女を襲った。
それでも、美智子の中にある「生きたい」という本能が、彼女の身体を突き動かした。
「がんばるしかない」
彼女は震える指先で、都心のオフィスでの新しいアルバイトの面接を予約した。
これがダメなら、本当に終わりだ。
そう自分に言い聞かせ、履歴書を書き上げた。
そして、運命の当日の朝がやってくる。
予定通りなら、彼女は朝の営団地下鉄に乗り込み、新しい自分を始めるために霞ケ関や築地方面へと向かうはずだった。
だが、目覚めた瞬間、暴力的なまでの激しい悪寒が美智子の細い身体を貫いた。
頭が割れるように痛み、節々が激しく痛む。枕元の体温計を脇に挟むと、示された数字は38度を遥かに超える高熱だった。
起き上がることさえままならない。
美智子は泣く泣く、震える手で面接先へ電話を入れた。
「……申し訳ありません、今朝になって急にひどい熱が出てしまいまして。本日の面接を、辞退させてください。本当に、すみません……」
受話器を置いた彼女は、布団の中で自らの不甲斐なさにボロボロと涙を流した。
ここ一番の大事なときに、体調管理すらできずにチャンスを棒に振ってしまう自分。
やっぱり、自分は神様からも見捨てられたダメな人間なのだと、激しい自己嫌悪に震えながら、熱に浮かされて再び深い眠りへと落ちていった。
【地獄の光景と、見えない糸】
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
午後になり、薬が効いたのか少しだけ身体が楽になった美智子は、汗を拭うために這うようにして布団を出て、部屋のテレビをつけた。
点いた画面に映し出されていたのは、目を疑うような、地獄の光景だった。
『本日午前、営団地下鉄の車内で、猛毒のサリンが撒かれる未曾有のテロ事件が発生しました——』
緊迫したアナウンサーの声と共に、築地、霞ケ関、神谷町といった駅のホームや地上の出口に、泡を吹いて崩れ落ちる無数の人々の姿が画面いっぱいに映し出されていた。
ブルーシートが敷かれ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した都心のど真ん中。
それは、まさに美智子が「今朝の面接」のために、予定通り健康であれば、確実に乗り込んでいたはずの時間帯、そして、まさにその路線の車両だった。
もし、今朝あの熱が出ず、予定通りに地下鉄へ乗り込んでいたなら。
彼女の命が、明日を迎えることは確実になかった。
自分を責め、涙を流したあの「暴力的な高熱」こそが、彼女の命を間一髪で救い出した、奇妙な運命の悪戯だったのだ。
美智子はテレビの前で、ガタガタと全身を震わせながら、画面を見つめ続けた。
強烈な恐怖の後に、彼女の脳裏に不意に浮かび上がったのは、あの17歳の春、大阪の鶴橋駅前で自分を救い出してくれた、伊崎進のまっすぐな眼差しだった。
『僕は、館谷や、かつての狭間先輩と同じ気持ちで、上林さんのことを見てきましたから』
岡山へ帰る自分に、彼はそう言って、信州の温かいハンカチを握らせてくれた。
今、そのハンカチは、東京のこの寂しい部屋の引き出しの奥に、大切に仕舞われている。
自分を裏切って消えた館谷、自分の生活を優先した狭間、そして自分を拒絶した東京の婚約者。
誰もが彼女を置いて去っていく中で、あの伊崎進という少年だけは、一度だって自分を裏切らなかった。
京都の最難関大学へ進学し、今や立派な大人の男としての道を歩んでいるであろう彼の存在が、海の向こうのペンフレンドの優しさと共に、美智子の枯れ果てていた心に、不思議な温かい涙を止めどなく溢れさせた。
神様が私を生きながらえらせてくれたのなら、もう一度、前を向こう。
東京の片隅、サリン事件のニュースが流れる静かな部屋で、20代半ばになった上林美智子は、進から貰ったあの白い布の感触を思い出しながら、不器用な手を固く握りしめ、再び自分の足で立ち上がるための、小さな、しかし確かな一歩を踏み出そうとしていた。
2人の運命の糸は、時を超え、距離を超え、再び巡り合うその日に向かって、静かに手繰り寄せられ始めていた。




