第3章 進の合格と美智子の迷路
【黎明の凱歌、そして旅立ちの背中】
昭和62年の春。定時制高校の男子寮に、一つの奇跡がもたらされた。
京都の黎明大学法学部、合格。
あの2月7日、母の命日に凍てつく京都のキャンパスで完膚なきまでに叩きのめされ、放心状態で戻ってきた進だった。
しかし、世界史の圧倒的な高得点と、死に物狂いで食らいついた英語の記述部分が奇妙な引っ掛かりを見せ、最難関の門をこじ開けていたのだ。
合格の報が男子寮に届いた夜、ロビーはまるでお祭りのような騒ぎになった。
「やったな、伊崎!この学校から黎明大学なんて、お前は本当に化け物だよ!」
鶴畑が、我がことのように進の肩を叩いて涙ぐみ、3年生の田川正成も「伊崎先輩は、僕たちの希望です!」と目を輝かせて歓声を上げた。
定時制高校の教頭先生も、職員室で進の手を強く握り締め、「よくやった、我が母校で思う存分法律を学んでこい」と声を震わせた。
多くの仲間たちから祝福され、進は初年度の学費を猶予してもらえる黎明大学へと無事に入学を決めた。
しかし、進が京都で新しい学問の道を歩み出し、自らの力で未来を切り拓き始めたその裏側で、かつて進が命懸けで救い出した上林美智子は、東京という巨大な街の底で、想像を絶する過酷な放浪の旅を始めていた。
【東京彷徨、職を転々とする日々】
岡山の実家へ一旦戻った美智子だったが、やはり父親との間に生じた無言の溝に耐え切れず、知人の紹介を頼って東京へ上京する道を選んでいた。
今度こそ自立し、自分の力で生きていくのだという悲壮な決意を胸に、彼女が最初に就職したのは、ある新聞販売店だった。
そこは、文字通りの肉体労働の地獄だった。
住み込みで、毎朝まだ星も出ていない午前3時に叩き起こされる。
重い新聞の束を自転車の荷台に積み、東京の入り組んだ坂道を、150センチの小さな身体で必死にペダルを漕いで回った。
夕方には夕刊の配達が待っている。
規律の厳しさはかつての女子寮の比ではなく、あまりのキツさと睡眠不足から、美智子は一年足らずで心身ともに限界を迎え、逃げるように退職した。
その後、彼女は歩合制の保険の営業へと転職した。
ただ、ここでも、会社から課せられる冷酷な「ノルマ」という数字の壁が、彼女の繊細な心を容赦なくすり減らした。
契約が取れなければ上司から罵倒される毎日に耐え兼ね、ここも長くは続かなかった。
次に選んだのはバスガイドだった。
きらびやかな制服に身を包み、東京の街を案内する仕事に一瞬の夢を見たが、美智子には致命的な体質があった。
極度の乗り物酔いである。連日、激しい眩暈と吐き気に襲われ、さらに生来の激しい偏食などが災いし、ついに過労で倒れてしまった。
東京という街は、不器用な彼女に対してどこまでも冷淡だった。
行き着いた先は、深夜のビル街で一人佇む、ガードマンのアルバイトだった。
凍てつくような夜風に吹かれながら、誰もいない工事現場やビルの入り口で見張りに立つ日々。
かつて定時制で働きながら学んでいた頃よりも、彼女の生活は確実に荒み、孤独の闇は深くなっていた。
そんな暗闇の底で、美智子は一人の男性と出会う。
優しく声をかけてくれたその男のぬくもりに、美智子は縋るようにして恋に落ち、やがて二人は「婚約」を交わした。
ようやく、人並みの幸せが手に入る。
これで、あの暗い深夜のガードマン生活からも抜け出せる。
美智子は、自分の人生にようやく訪れたささやかな春を、心の底から祝福していた。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。




