第2章 ついに来た大学受験
【2月7日の黎明、凍てつく決戦】
昭和62年、2月7日。
その日は、関西最難関「関洛四雄」の一角である黎明大学法学部の入試当日であり、同時に、進がまだ少年だった頃に急逝した母・千夜子の命日でもあった。
男子寮の壁の吹き出し口からゴーと響く温風の音を背に、19歳の進は夜明け前の暗闇の中で学ランに袖を通した。
カバンの奥底には、参考書と共に、母の形見のような生真面目な心がしっかりと詰まっている。
国鉄の始発列車に乗り込み、凍てつく車窓をじっと見つめながら京都駅へと向かう。
駅に降り立つと、京都特有の底冷えのする空気が進の身体を鋭く刺した。
そこから受験生で超満員となった路線バスに揺られ、歴史の重みを感じさせる黎明大学の白亜のキャンパスへと辿り着いた。
「……ここが、黎明大学」
教頭先生の母校であり、初年度の学費を卒業後まで待ってくれる、進にとって唯一残された希望の砦。
しかし、試験教室に一歩足を踏み入れた瞬間、全日制の有名進学校のバッジをつけた受験生たちの放つ圧倒的な熱気に、進は気圧されそうになった。
やがて、冷徹なチャイムの音と共に試験が始まった。
「……っ、何だ、この難しさは」
英語の冊子をめくった瞬間、進の指先がわずかに凍りついた。
定時制高校の授業レベルはおろか、これまで受けてきた全国模試のどれよりも、英文の量、語彙の難易度が桁違いに高かった。
出納係の仕事の合間に、毎日3時間の猛勉強で詰め込んできた知識の網の目を、すり抜けていくような悪魔的な設問の数々。
続く国語の現代文も、一読しただけでは論理の骨組みが掴めないほど難解な学術論文だった。
唯一の武器である世界史だけは、初回10点から偏差値70超まで叩き上げた執念をぶつけ、狂ったようにシャープペンシルを走らせて部分ぎりぎりの解答を埋めていったが、英語と国語の痛手はあまりにも大きかった。
終連のチャイムが鳴り響いたとき、進は机に両手を突いたまま、しばらく立ち上がることができなかった。
完膚なきまでに叩きのめされた、という表現が相応しかった。
4年間で低下した学力の穴を、最後の数ヶ月の猛追い上げだけで完全に埋めきることは、やはり「絶対無理」だったのか。
最難関の壁は、19歳の定時制の少年を嘲笑うかのように、あまりにも高くそびえ立っていたかに見えた。
【放心の車窓と、西畿の光】
試験場を出てからの記憶は、進の頭の中で白く霞んでいた。
押し寄せる受験生の波に流されるようにして京都駅行きのバスに乗り、再び国鉄の座席に腰を下ろしたとき、進は完全に放心状態に陥っていた。
ガタゴトと揺れる電車の窓ガラスに、自分の19歳の冴えない顔が映っている。
世界史の難問を思い返しては、「あそこは違ったかもしれない」と後悔の念が次々と湧き上がり、胸の奥が冷たい泥で満たされていくようだった。
もし、母の命日である今日、この黎明大学に落ちてしまえば、自分のこれまでの4年間は何だったのだろうか。
美智子を失った喪失感をすべて勉強に転化させて突き進んできたあの夜の執念は、ただの空回りだったのだろうか。
しかし、暗闇に沈みかける進の心を辛うじて繋ぎ止める、もう一つの「灯火」があった。
(僕には……西畿大学がある)
実はこの黎明大学の入試の少し前、進は大阪市内にある「西畿大学」の夜間学部(二部)を受験していた。
昼間は働き、夜間に学ぶという定時制のスタイルをそのまま継続できるその大学の入試では、黎明大学のような絶望感はなかった。
むしろ、これまで暗記してきた基礎知識が次々と噛み合い、手応えは十分だったのだ。
学費の猶予制度がある最難関の黎明大学法学部が、第一志望であることに変わりはない。
けれど、もしそこがダメだったとしても、自分には西畿大学の二部がある。
そこで働きながら法学を修め、実力の世界へ這い上がる道は残されている。
「甘えるな」と言って去っていった早川先輩の言葉。
『君のような青年と結婚してほしい』と言ってくれた美智子の父親の声。
そして、今も岡山で自分の白いハンカチを握りしめ、必死に前を向こうとしている上林美智子の横顔。
(どんな結果になろうと、僕の歩みは止めない。定時制の四年間で、僕はそのために這いつくばってきたんだから)
大阪の街の明かりが見えてくる頃、放心状態だった進の瞳に、少しずつ、しかし確実に、いつもの生真面目な光が戻り始めていた。
19歳の伊崎進の激動の受験期は、京都の冷たい挫折感と、大阪の確かな手応えの狭間で、いよいよ運命の合格発表の春を迎えようとしていた。




