第10章 美智子、実家へ
【鶴橋の濁流と、小さな避難所】
公衆電話の受話器を置いた進は、男子寮の部屋に戻る暇さえ惜しんで、自分の古い実用自転車のペダルを猛烈に漕ぎ出した。
春の夜風が学ランを激しくなびかせる。胸の中で鳴り響くのは、美智子のあの悲痛な泣き声だけだった。
指定された場所は、近鉄線と国鉄線が交わる、生野区の鶴橋駅前だった。
うどん屋や焼肉店がひしめき、夜遅くになっても独特の混沌とした熱気と出汁の匂いが漂う駅前ロータリー。
日曜日の昼前。
人込みの中に、進は探していた小さな影を見つけた。
「上林先輩……!」
駅の片隅、人の波に怯えるように縮こまっていたのは、間違いなく美智子だった。
身長150センチの身体は、以前よりもさらに細く見えた。
いつも抱えていたあの大きな茶色の革カバンを、まるで盾のように胸元で固く抱きしめている。
近づくと、街灯の光の下で、彼女の頬が赤黒く腫れ上がっているのがはっきりと見えた。
髪の毛は乱れ、制服のブラウスの袖口は引きちぎられそうに伸びている。
「伊崎君……っ」
進の姿を見た瞬間、美智子の瞳から大粒の涙が溢れ出したが、彼女は周りの目を気にして、また変な手振りを交えながら口元を押さえた。
その不器用な仕草が、かえって彼女の負った恐怖の深さを物語っていた。
手持ちの現金をほとんど持っていなかった進は、駅前のわずかな小銭を数え、近くにあった24時間営業のファーストフード店へと彼女を連れ込んだ。
注文したのは、冷めかけた二つの安価なハンバーガーと、温かいコーヒー。
店内の明るい蛍光灯の下で、美智子は温かいカップを震える両手で握りしめながら、ぽつり、ぽつりと状況を話し始めた。
「私……もうあのうどん屋には戻れない。館谷君、本当に怖いの……。でもね、伊崎君。私、実家にも帰れないんだよ」
美智子は俯き、カップの底を見つめた。
「お父さんにね、あんな身勝手で学校も辞めた男のところに行くなんて絶対に許さないって、すごく反対されたの。なのに、私、それを振り切って岡山を出てきちゃったから……。今さら、助けてなんて言えないよ」
親の離婚を経て、町工場で朝から晩まで必死に働いて自分を育ててくれた父親。
その親心を無下に踏みにじって飛び出したという罪悪感が、彼女の退路を断っていた。
しかし、長野の鹿沢の家で「本当の家族の厳しさと温かさ」を知り、早川から「甘えるな」と教え込まれてきた進の芯は、決してブレなかった。
「上林先輩。お父さんは、先輩が憎くて反対したんじゃないはずです。傷ついて、暴力を振るわれている娘を放っておく親はいません。きちんと話せば、絶対に分かってもらえるはずです。……今から、電話しましょう」
進のまっすぐな眼差しに、美智子は小さく、しかし意を決したように頷いた。
【 岡山の声、予期せぬ言葉】
二人は店の片隅にある公衆電話へ向かった。
進が10円玉を何枚も機械に投入し、美智子が震える指で、岡山の実家の番号をダイヤルした。
数回のコールの後、受話器の向こうから、長年工場で鍛えられたような、低く硬い男性の声が響いた。
美智子は受話器を握りしめたものの、恐怖と緊張のあまり「お父さん、私……私ね、あの……」と早口でまくしたてるだけで、言葉が全く繋がらない。
両手が激しくバタバタと泳ぎ、過呼吸のようになっていく。
「先輩、僕に貸してください」
進は美智子の手から受話器を毅然と引き取ると、自らの耳に当てた。
「夜分遅くに恐れ入ります。私は、上林先輩と同じ定時制高校に通う、4年の伊崎進と申します」
受話器の向こうの父親は、夜中の突然の男からの電話に、明らかに怒気をはらんだ声を出した。
『美智子か? 連れて逃げた男の仲間か。何の用だ』
「違います」
進は一歩も引かなかった。
大人の世渡りは知らなくとも、正論を伝える誠実さだけはあった。
「先輩は今、大阪の鶴橋駅前にいます。館谷という男から、日常的に殴る蹴るの暴行を受け、着の身着のままで逃げてきました。今、お父様の助けが必要です。先輩は、お父様に反対されたことを深く悔やんで、自分からは上手く話せずに泣いています」
進の淀みのない、しかし熱の籠もった説明に、受話器の向こうの父親は絶句した。
長い沈黙の後、荒い息遣いとともに、父親の声から怒気が消え、一人の親としての深い苦悩と怒りが漏れ出した。
『……本当に、美智子が殴られたんか』
「はい。頬が腫れ上がっています」
『分かった。すぐに新幹線で大阪へ向かう。……伊崎君、と言ったな。娘を助けてくれて、本当にありがとう。……私としてはな、美智子には、君のような一本筋の通った誠実な青年と結婚してほしいんだがな』
「え……」
予期せぬ父親の言葉に、17歳の進は完全に不意を突かれ、心臓が大きく跳ね上がった。
まさか、そんな風に言われるとは夢にも思っていなかった。
進は顔を真っ赤にしながら、ただ一言、
「あ……ありがとうございます。お気を付けてお越しください」
とだけ返すのが精一杯だった。
電話を終え、美智子は一度岡山の実家へ戻り、身の安全を確保した上で、地元で仕事を見つけてから今後の人生を改めて考えることになった。
【信州のハンカチ、18歳の告白】
父親が大阪に到着するまでの数時間、駅の待合室のベンチで、二人は静かに並んで座っていた。
進は、自分の黒い学生カバンの奥底から、一枚の白い布を取り出した。
それは、あの信州の夏休みに、小学生の君枝が『すー兄ちゃんのお嫁さんになる人に応援でプレゼントしてあげて』と託してくれた、あの大切なハンカチだった。
「これ……使ってください」
進が差し出すと、美智子は驚いたようにそれを見つめ、そっと受け取って腫れた頬の涙を拭った。
信州の清らかな風が染み込んだようなそのハンカチは、傷だらけの美智子の肌を優しく包み込んでいく。
「伊崎君……」
美智子はハンカチを握りしめ、不思議そうに進を見つめた。
「どうして、そんなに優しくしてくれるの? 館谷君のときも、狭間君のときも、私がバカみたいに浮かれて、ひどい目に遭うたびに、どうしていつも伊崎君は、黙って私を助けてくれるの……?」
その問いに、進はもう、生真面目な鎧の中に隠れることをしなかった。
これからの受験も、自分の未来も、何一つ保証されていない子供の自分。
けれど、この気持ちだけは、どんな大人にも負けない本物だった。
進は美智子の目をまっすぐに見据え、静かに、しかしはっきりと言った。
「それは僕が、館谷や、かつての狭間先輩と同じ気持ちで、上林さんのことを見てきたからです」
美智子は、息を呑んだ。
館谷や狭間と同じ気持ち。
それが、自分に対する「異性としての恋慕」であるという事実に、彼女は今、初めて明確に気づかされたのだ。
進がどれほどの苦痛に耐えながら、自分の「永久就職」の話を聞き、自分の不器用さを支え続けてくれていたのか。
「あ……う、うあぁ……っ」
美智子は、堰を切ったように泣きじゃくった。
今度は館谷への恐怖の涙ではなく、進のあまりにも深く、あまりにも切ない誠実さに心が震えた涙だった。
彼女はハンカチを両手で強く抱きしめた。
「大事にする……本当に、大事にするね、伊崎君」
美智子は泣きながら、必死に言葉を絞り出した。
「でも……伊崎君の気持ちに対する返事は、今は出来ない。私、自分のせいでたくさん人を傷つけて、頭の中がめちゃくちゃで……。今の私じゃ、伊崎君のその綺麗な気持ちに、ちゃんと応えることができないの」
「分かっています」
進は優しく微笑んだ。
「今は、お父さんと一緒に岡山へ帰って、身体を治してください。僕は、ここで勉強を続けていますから」
やがて、岡山の切符を手にした美智子は、迎えに来た父親と共に改札口の向こうへと消えていった。
何度も何度も振り返り、手をバタバタと振りながら、進のハンカチをしっかりと握りしめていた。
一人残された鶴橋駅のホーム。
春の夜風はまだ冷たかったが、進の胸の奥には、かつてないほど確かな熱が宿っていた。
フラれたわけではない。彼女は、自分の気持ちを連れて岡山へ帰ったのだ。
(僕は、もっと強い男になる)
進は実用自転車にまたがり、暗い夜道を走り出した。
カバンの中の参考書が、心なしか少し軽く感じられた。
偏差値41からの、本当の戦いがここから始まる。
いつか大人の男になって、彼女の前に堂々と立つその日のために、17歳の伊崎進は、夜の大阪を力強く突き進んでいった。




