第9章 美智子の旅立ちと永久就職の崩壊
【旅立ちの送辞と、届かぬ背中】
三月。大阪の街に名残惜しい春の雪が舞う中、定時制高校の卒業式が執り行われた。
四年生の最前列には、身長150センチの小さな身体に、少し仕立ての古いスーツをまとった上林美智子の姿があった。
その表情は、これから「館谷の待つうどん屋」へと住み込む緊張と、永久就職という夢への期待で満ちていた。
「在校生代表、三年、伊崎進」
名前を呼ばれた進は、静かに壇上へと上がった。
成績優秀なため、進は入学式でも代表に選ばれていた。
その時以来の大役である。
進は式辞用紙を広げ、声を震わせることなく、一文字一文字を厳かに読み上げた。
「……先輩方が、働きながら学び抜いたこの四年間の道のりは、私たち後輩の行く手を照らす確かな光です。いかなる困難があろうとも、自らの足で歩みを進められることを、心よりお祈り申し上げます」
その言葉は、体育館の冷たい空気に溶けていく。
進は一度も、美智子と目を合わせなかった。
目を向ければ、胸の奥に押し込めた感情がすべて決壊してしまうと分かっていたからだ。
卒業式の翌日、美智子は大きなカバンを抱え、女子寮を後にした。
彼女の「永久就職」の生活が、大阪のどこかで始まったのだ。
進は、その辛さをすべて忘れるかのように、狂ったように受験勉強へと打ち込んだ。
雑誌室の休み時間も、寮のボイラーの乾いた風が吹く深夜も、狂ったように参考書をめくった。
しかし、三月に受けた模試の結果も、現実は冷酷だった。
5科目総合の偏差値は「37」。
英語と数学での0点こそ辛うじて回避したものの、学力の土台が圧倒的に不足していた。
志望校の欄に書いた、関西圏のあらゆる大学の横には、無慈悲な「E判定」の文字が並んでいた。
(……国公立は、もう諦めよう)
受験料も学費もすべて自腹の進にとって、学費の安い国公立が本線だった。
しかし、この学力低下のスピードから這い上がるには、科目を絞るしかない。
進は苦渋の決断の末、私立大学専願へと舵を切り、三教科にすべてのエネルギーを集中させた。
その執念が、四月の模試でようやく小さな芽を吹く。
総合偏差値が、初めて「41」と、40の壁を超えたのだ。
まだ底辺であることに変わりはなかったが、暗闇の中に一筋の光が見えた気がした。
そんな折、男子寮の代表電話のベルが激しく鳴り響いた。
【引き裂かれた夢、受話器の向こうの悲鳴】
「伊崎、お前に電話だ。上林さんという女性からだって」
進は男子寮の一室で勉強中だった。
この寮はほとんどの者が進学などしない。
だから、寮の舎監と監事にお願いして、特別に空き部屋を自習室にしてもらった。
自習室を出た進は、英文法の参考書を握りしめたまま、ロビーへと走った。
美智子がうどん屋へ嫁いでから、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。
なぜ、今になって男子寮に電話など。
受話器を耳に当てた瞬間、進の背筋に冷たい戦慄が走った。
『伊崎君……伊崎君、助けて……!』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、かつての明るいイントネーションでもなく、夢見がちな永久就職の話でもなかった。
ガタガタと激しく震え、泣き叫ぶ、美智子の悲痛な声だった。
「上林さん!? どうしたんですか、落ち着いてください!」
『私……館谷君と、別れたい。もうあそこにはいられないの……!』
美智子は、うどん屋に住み込んでからも、以前から心の支えにしていた「韓国のペンフレンド」との海外文通を、細々と継続していた。
海の向こうの友達への近況報告。
それは彼女にとって、慣れない丁稚奉仕の生活の中での、ささやかな息抜きに過ぎなかった。
しかし、その手紙がうどん屋に届いた時、恐ろしい事件が起きた。
館谷と、その店の店主は、美智子に無断でその手紙を勝手に開封したのだ。
ハングルで書かれた文面を見て、館谷は異常なまでの嫉妬に狂った。
美智子が「これはただのペンフレンド、ただの友達だから!」と、手をバタバタとさせて必死に弁明しても、二人は一切耳を貸さなかった。
それどころか、館谷と店主は、150センチの小さな美智子を床に突き飛ばし、殴る蹴るの容赦のない暴行を加えたのだ。
『それから毎日……毎日、館谷君、私が少しでも気に入らない動きをすると、すぐに殴るの。顔はやめてって言っても、髪の毛を引っ張られて……。私、もう怖くて、どこにも逃げられなくて……!』
受話器の向こうで、美智子が過呼吸のような声を上げて泣き崩れる。
進の脳裏に、かつて中庭で、館谷の横で嬉しそうに手を動かしていた美智子の姿が浮かんだ。
彼女がどれほどの覚悟で、あの無責任な男との「永久就職」に未来を賭けたか。
それを、館谷はまたしても、今度は最悪な「暴力」という形で踏みにじったのだ。
「……上林さん。今、どこにいますか」
進の声から、一切の感情が消えた。
代わりに、冷徹なまでの「生真面目な覚悟」が、彼の全身の血を沸騰させていた。
『鶴橋駅の近くの公衆電話……。見つかったら、また殴られる……!』
「その場所を動かないでください。僕が、今から行きます」
進は受話器を叩きつけるように置くと、ロビーを飛び出した。
世渡りの術も、まだ何一つ持たない17歳の少年。
しかし、カバンの奥底に眠るあの信州のハンカチを、今度こそ傷だらけの彼女に手渡すため、伊崎進は夜の大阪の街へと、弾かれたように走り出していた。




