第8章 進の新たな苦悩
【繰り返される「永久就職」、逃げ場なき傷心】
夏が過ぎ、秋が深まる頃、館谷との復縁を果たした美智子は、完全に盲目になっていた。
「伊崎君、聞いてよ。館谷君がね、うどん屋の主人から将来は暖簾分けも考えてもらえるかもしれないって。私、高校を卒業したら、そのまま彼のところに永久就職するつもりなの。だから、お料理の練習も始めなきゃいけなくて……」
放課後の廊下や図書館の片隅で、進と顔を合わせるたびに、美智子の口からは「永久就職」という言葉しか出てこなくなった。
19歳の彼女にとって、それは未来への希望そのものだった。
顔を真っ赤にし、いつものように手を激しくバタバタと動かしながら、夢見がちに語るその姿を、進はただ、胸を切り裂かれるような思いで見つめることしかできなかった。
進にとって、それは辛く、耐え難い日々だった。
かつては館谷の失踪や狭間との不和に寄り添い、彼女の心の支えであったはずの自分が、今や「他の男との幸せな結婚話」をただ一方的に聞かされるだけの存在に成り下がってしまったのだ。
(これ以上、この話を聞き続けるのは、僕の精神が持たない……)
張り裂けそうな気持ちのはけ口を求め、進が目を向けたのは「勉強」だった。
この頃から、進の心の中に「大学受験」という明確な目標が芽生え始めていた。
歪な人間模様が交錯するこの定時制高校を卒業した後、自分の力で「実力の世界」へ這い上がるには、学問の道を進むしかない。
何より、美智子への断ち切れぬ想いと失恋の苦しさを、教科書に向かう熱量へと転換するしかなかったのだ。
【冷酷な現実、孤独な受験の壁】
しかし、18歳の進の前に立ちはだかったのは、あまりにも高くて冷たい現実の壁だった。
進の家庭環境は、受験を応援してもらえるような甘いものではなかった。
実家といっても、それはあの鹿沢宅だ。
進には、本当の意味での実家はない。
進の両親は進が幼いときに離婚した。
母・千夜子は進を連れて一度再婚したがうまくいかず、また離婚し、シングルマザーになった。
母子家庭になったあと、進の母・千夜子は過労で倒れ、脳出血で38歳の生涯を閉じた。
だから進は、大学の学費はもちろんのこと、受験料も、入学金も、一円たりとも誰からも出してもらえないのだ。
昼間の図書館勤務で得られる薄給から、生活費を差し引き、毎月コツコツと貯金をしてはいたものの、その額は大学へ進学するには到底不十分だった。
さらに深刻だったのは、彼自身の「学力の低下」だった。
長野の鹿沢の家で暮らしていた中学時代は、進はかなりの好成績だった。
一学年約250人いたが、その中で2位になったこともあった。
だが、定時制高校に入学してからの2年間は、あまりにも過酷な労働と生活の維持、そして美智子を巡る精神的疲弊に追われ、まともに机に向かう時間など作れずにいた。
定時制高校の授業レベルは、全日制に比べて著しく低く、進の基礎学力は、3年の間にみるみるうちに砂のように崩れ落ちていたのだ。
年が明け、昭和61年の1月。
学校中が卒業を目前に控えた4年生の進路の話題で浮き足立つ中、美智子は着々と「館谷の待つうどん屋」へ住み込みで行くための準備を進めていた。
彼女の荷物が少しずつ女子寮から整理されていく。
そんなとき進は、自分の実力を知るため、高校に入って初めての本格的な全国模擬試験に臨んだ。
寒風が吹き荒れる日曜日、全日制の受験生たちに混じって受けたその模試の結果は——惨憺たるものだった。
【偏差値32の衝撃、校内一位の虚しさ】
2週間後、寮の自室で成績表を開いた進は、その場に凍りついた。
「数学:0点」
「英語:0点」
かつて得意だったはずの科目は、完全に基礎の記憶が抜け落ち、全日制の受験生たちが解く応用問題の前には全く歯が立たなかった。
他の科目を合わせても、5科目総合での偏差値は、わずか「32」という信じられない数字を叩き出していた。
しかし、その成績表の隅に書かれた「校内順位」を見た時、進はさらなる絶望の深淵に叩き落とされることになった。
「校内順位:1位」
全国で見れば底辺中の底辺であるはずの偏差値32が、この定時制高校の中では、最も優秀な成績ということになってしまう。
それが、自分の置かれている環境の紛れもない現実だった。
周囲の同期や先輩たちは、誰も大学に本気で受かるとは考えていない。
あの狭間先輩も、一時、体育大学を目指したが断念した。
学力が圧倒的に足りないのだ。
受験など見据えていない。日々の労働に追われ、卒業することだけを目的としている学び舎において、進の孤独な挑戦は、最初からあまりにも無謀な砂上の楼閣だったのだ。
「伊崎先輩……大丈夫ですか?」
横から、二年目になった田川正成が、顔を真っ白にして作業をしている進の様子を心配そうに覗き込んできた。
「あ、いや……なんでもないんだ、田川君」
進の傷心は、到底言葉にできるものではなかった。
美智子はもうすぐ、あいつの元へと去ってしまう。
それを引き止めるだけの男としての甲斐性も、経済力も自分にはない。
ならばせめて、学問の世界で身を立てるしかない。
進は、勉強は得意なはずだった。
この定時制高校に入ったときも、絶対に大学に進んで法律を学びたいと誓ったはずだった。
それなのに、その希望は、「0点」という冷酷な数字によって木っ端微塵に打ち砕かれそうになっていた。
実用自転車を踏みしめる帰り道、大阪の1月の夜風は、骨の奥まで染みるように冷たかった。
学ランの内ポケットからカバンの奥底へと移された、あの信州のハンカチ。
もう、それを美智子に手渡す未来など、どこを探しても残されていないように思えた。
18歳の伊崎進は、己の無力さと、あまりにも低すぎるスタートラインに涙さえ出ないほどの衝撃を受けながら、真っ暗な夜道の中を、ただじっと耐えるように進むしかなかった。




