第7章 永久就職の約束
【三年目の巡り合わせと、海の向こうの便り】
早川先輩が去った激動の年度が終わり、季節はまた新しい春を連れてきた。
翌年、上林美智子は定時制高校の最高学年である四年生に、そして伊崎進は三年生になった。
雑誌室での仕事にも完全に習熟した進は、今や図書館の職員からも頼られる存在になっていた。
一年生だった田川正成も二年目となり、進の背中を見ながら一人前に動いている。
進は、早川から最後に突きつけられた「甘えるな」という言葉を血肉に変え、私情を一切仕事に持ち込まず、ただひたすらに実直な日々を積み重ねていた。
一方で、美智子と狭間先輩の関係は、冬の終わりを待たずに完全に破綻していた。
新聞社の印刷工場での容赦のない労働と野球部の活動に追われる狭間には、女子寮の過酷な上下関係に怯える美智子の心をケアする余裕は残されていなかった。
美智子はまたしても、深い孤独の淵に取り残されることになった。
四年生になり、縦割りの四人部屋で一番上の立場になった美智子だったが、元来の不器用さと、二度の寮脱走という過去の傷が癒えることはなかった。
寂しさに耐えかねた彼女が、その心の隙間を埋めるために始めたのは、意外にも「韓国のペンフレンド」との海外文通だった。
「伊崎君、見てよ。これ、韓国の友達から届いた絵葉書なの」
放課後の廊下、大きなカバンを抱えた美智子が、久しぶりに少しだけ声を弾ませて進に封筒を見せてきた。
「私、ハングルなんて全然読めないから、辞書を引き引き、夜中に手紙を書いてるんだ。海の向こうにも、同じように働きながら頑張ってる人がいると思うと、なんだか救われる気がしてさ……」
ハキハキとした岡山市街地のイントネーションのなかに、隠しきれない寂しさが滲む。
「次のオリンピックはソウルであるんだって。カール・ルイスが見たいって。でも、ベン・ジョンソンっていうライバルがいるのね」
美智子が早口でまくし立てる。
(ソウルオリンピックなんて、だいぶ前からニュースになっていたのに、知らなかったんだ)
進は、学ランのポケットに入ったままの信州のハンカチに触れながら、「良い気晴らしが見つかってよかったですね」と静かに微笑んだ。
館谷、狭間と続き、今度は海の向こうの文通相手。
それでも、彼女が少しでも前を向けるならそれでいいと、進は自分を納得させようとしていた。
しかし、あの「執念深い男」が、再び彼女の前に立ちはだかるとは、進も想像していなかった。
【帰ってきた男、二度目のアプローチ】
初夏のある日、あの館谷真が、またしてもひょっこりと姿を現した。
うどん屋での住み込み修行がよほど過酷なのか、175センチの身体は以前にも増して痩せこけ、体重は50キロを切っているのではないかと思わせるほどだった。
ただ、そのギラギラとした瞳だけは、大阪の街の熱気に揉まれてさらに鋭さを増していた。
館谷は、美智子の前に立ち、その巧みな弁舌を再び振るった。
「美智子、急に消えて本当に悪かった。でもな、俺は本気なんだ」
館谷は美智子の小さな手を取り、まっすぐにその目を見つめた。
「うどん屋での修行もようやく軌道に乗って、店主からも将来を期待されるようになった。生活の目処が立ちそうなんだ。だから、ただ付き合うんじゃない。俺のところに、永久就職しないか」
永久就職。
その重い言葉は、孤独に震えていた十九歳の美智子の胸に、強烈な一撃として突き刺さった。
二度も寮を飛び出し、親の離婚を経験し、孤独な定時制での自活生活を続けてきた美智子にとって、「確固たる自分の家庭を持つこと」は、何よりも焦がれた救いだったのだ。
館谷の失踪による傷も、その甘美な響きの前には一瞬で消し飛んでしまった。
「館谷君…本当に? 私、また信じてもいいの…?」
美智子は完全に乗り気になってしまった。
緊張と興奮のあまり、両手を激しくバタバタと動かし、顔を真っ赤にして館谷の提案を受け入れた。
【雑誌室の夕暮れ、冷たい覚悟】
「……館谷の奴、上林さんにプロポーズ紛いのことをしたらしいな」
ある夜、男子寮の四人部屋。
ボイラー室から送られてくる乾いた風の音が響く中、鶴畑が、苦渋に満ちた声で進に告げた。
「あいつ、うどん屋で多少の自信をつけたからって、調子に乗りすぎだ。上林さんも、あんなにひどい振られ方をしたのに、結婚って言葉に目が眩んじまって……。伊崎、お前、このままでいいのか?」
進は、机の上の教科書を見つめたまま、微動だにしなかった。
「上林先輩が選んだ道なら、僕が口を挟むことではないかな」
進の声は、徹頭徹尾、冷徹なまでに静かだった。
「だけどよ!」
「誰かを好きになるのは勝手だけど、それで周りに迷惑をかけたり、他人の人生を無理にかき乱すのは、いけないことだよ」
進は、かつて早川が残した言葉を、自分自身への戒めとして言い聞かせた。
館谷の言葉が本物なのか、それともまた、あいつのその場しのぎの口八丁なのかは分からない。
しかし、美智子がその言葉に未来を賭けようとしているのなら、自分が正論を振りかざして止める権利などないのだ。
翌日の午後、進は図書館の窓から、中庭を歩く美智子の姿を見た。
館谷から届いたであろう手紙を大切そうにカバンに仕舞い、早口で何かを呟きながら、トントントントンと走っていく。
その背中は、確かに以前の孤独な影を払い、未来への希望に弾んでいるように見えた。
その日の定時制高校からの帰り道。
進は学ランのポケットから、信州のハンカチをそっと取り出した。
鹿沢の家で、小学生の君枝が『すー兄ちゃんのお嫁さんになる人なの』と言って笑った、あのお守りのような布。
(先輩……僕はあいつのように、甘い約束を囁くことはできない)
進はハンカチを静かに畳み直し、今度はカバンの最も深い奥底へと仕舞い込んだ。
(でも、もしあいつが、また上林さんを裏切って泣かせるようなことがあれば——)
17歳の伊崎進は、図書館閲覧室のカーテンが秋の気配を含んだ風に揺れる中、己の胸の奥底に、かつてないほど冷たく、そして強固な「覚悟」を静かに、静かに沈めていた。
周囲の人間がどれほど激しく、歪に進もうとも、自分だけは彼女の最後の防波堤として、この場所で実直に立ち続けるのだと。




