第6章 早川の退場
【終わらない相談室と、すり減る歯車】
狭間と美智子の交際は、驚くほど早く暗礁に乗り上げた。
昼は新聞社の印刷工場で働き、夜は野球部で白球を追いかける狭間にとって、時間は何よりも貴重だった。
一方の美智子は、女子寮の厳しい規律から逃れるための心の拠り所を、常に求めていた。
すれ違いは必然だった。
狭間のぶっきらぼうな優しさは、次第に美智子にとって「冷たさ」へと変わり、狭間もまた、情緒が不安定になると手をバタバタとさせて早口で捲し立てる美智子の不器用さを、どう受け止めていいか分からなくなっていったのだ。
「伊崎、ちょっといいか」
ある夜、男子寮の廊下で、進は狭間に呼び止められた。
勤務先が違うため、学校以外で話す機会は滅多になかったが、同じ寮生として進の「生真面目さ」と「聞き上手」な評判は耳に届いていたのだろう。
狭間はボイラー室から送られてくる温風の下、太い腕を組んで深くため息をついた。
「上林のことが分からなくなった。あいつ、俺がちょっとキツいことを言うと、すぐに怯えるんだ。館谷の件があるから傷ついてるのは分かるが……どう接すればいいんだ」
進は喉の奥を強張らせながら、論理的な言葉を選んで狭間の言葉を受け止めた。
しかし、悲劇はそれだけで終わらなかった。
学校の帰り道、2キロの夜道を進が実用自転車を押して歩いていると、待っていたかのように美智子が駆け寄ってくるのだ。
「伊崎君、聞いてよ。狭間君、最近全然私の話を聞いてくれないの。……私、また一人になっちゃうのかな」
館谷の時と同じだった。
大好きな少女と、その恋人である先輩。
二人から、泥沼のような恋愛相談を交互にぶつけられる日々。
16歳の進の精神は、限界を超えてすり減っていった。
夜、寮の布団に入っても、狭間の苦渋に満ちた顔と、美智子の泣き出しそうな顔が頭の中で交錯し、一睡もできない夜が続いた。
【早川の叱責、甘えの拒絶】
精神的な疲弊は、ついに進の誇りである「仕事」に影響を及ぼし始めた。
ある放課後、雑誌室の整理をしていた進は、新着の学術雑誌のコードを完全に見落とし、全く違う棚へ配架するという、彼らしからぬ致命的なミスを犯してしまった。
「伊崎君、これはどういうこと?」
背後から、氷のように冷たい声が響いた。
元教育係の早川だった。
彼女は眼鏡の奥の鋭い目で、間違って置かれた雑誌と進の顔を交互に見つめた。
進の様子がここ数ヶ月おかしいこと、そしてその原因が三年生たちの男女関係に巻き込まれているせいだということを、鋭い彼女は見抜いていた。
「すみません……すぐに直します」
「謝れば済む問題じゃないわ。一年生の田川君の指導係が、こんな初歩的なミスをしてどうするの?」
早川は冷酷に言い放ち、進を誰もいない資料室の奥へと連れて行った。
そして、逃げ場のない進に向かって、言葉の刃を突きつけた。
「伊崎君。あなたが過去に長野でどんなことがあって、どういう経緯でこの定時制高校に来たのかは知らない。でもね、ここにいる生徒はみんな、多かれ少なかれ何かを抱えて生きているのよ。あなただけが特別に苦しいわけじゃない。仕事に私情を持ち込んで言い訳にするなんて、甘えないで」
進は言葉を失い、床を見つめた。
早川の言葉は、彼の生真面目な自尊心を容赦なく打ち砕いた。
「誰かを好きになるのはあなたの自由よ。勝手にすればいいわ。でもね、その個人的な感情のせいで、仕事に穴をあけたり、周りの誰かに迷惑をかけるようでは絶対に無作法だし、いけないことよ」
確かに、その通りだった。
美智子への想いを引きずり、相談を断りきれず、勝手に精神をすり減らして仕事でお粗末なミスをする。
それは他でもない、自分自身の「甘え」だった。
進は大いに反省し、拳を握りしめた。
「……申し訳ありませんでした」と深く頭を下げた進。
早川の冷徹な正論は、迷いの中にいた進の頭を冷やす、一筋の冷水となった。
【文化祭の密事、そして唐突な破滅】
しかし、その厳格な正論の主である早川自身が、最も劇的な形で破滅を迎えるとは、進も含めて誰も想像していなかった。
それは、秋に行われた定時制高校の文化祭の日のことだった。
賑わう校内の中で、早川が突然、姿を消した。
不審に思った教員たちが探したところ、彼女は学校を完全に抜け出し、図書館の男性嘱託職員の自宅アパートへ遊びに行っているところを押さえられてしまったのだ。
「早川さんが、停学になったらしいです」
雑誌室のカウンターで、一年生の田川が声を潜めて進に告げた。
単なる無断外出ではない。
以前から、その独身の男性嘱託職員と早川の間には、超えてはならない男女関係があったのではないかと強く疑われたのだ。
毅然として、誰よりも規律に厳しく、進の甘えを厳しく咎めたあの早川が、裏ではそんな「不純異性交遊」の渦中にいたという疑惑。
学校側の処分は迅速かつ苛烈だった。
早川はそのまま停学処分を経て、言い訳を一切することなく学校を自主退学した。
同時に、相手の男性嘱託職員も責任を問われる形で退職を余儀なくされた。
二人の間に、本当に深い男女の関係があったのか。それとも、厳しい現実に疲れた早川が、束の間の安らぎを求めて立ち寄っただけなのか。
その真相は、当事者たちが学校を去った後も、誰にも分からないまま闇に葬られた。
夕暮れの雑誌室。早川のいなくなった静かな空間で、進は一人、机に置かれた学術雑誌を見つめていた。
彼女が去り際に残した教えだけが、奇妙なほど鮮明に進の胸に残っていた。
『誰かを好きになるのは勝手だが、それで誰かに迷惑をかけるようではいけない』
たとえ彼女自身がその規律を破って破滅したとしても、あの言葉自体に嘘はなかった。
定時制高校の帰り道、進は学ランの内ポケットに手を当て、未だ美智子に渡せないままの信州のハンカチの感触を確かめた。
大人たちの世界は、あまりにも不条理で、脆く、割り切れない。
館谷の夜逃げ、狭間との軋み、そして早川の失脚。
様々な人間模様が激しく交錯する中で、16歳の伊崎進は、己の身を律することの難しさと重さを、その身に深く刻み込んでいた。
どんなに周囲が揺れ動こうとも、自分だけは誠実に、自分の足で立ち続けなければならない。
進は静かに、乱れた雑誌の束を棚へと戻していった。




