第5章 狭間先輩の登場
【三年生の介入、破られた偽名】
二年生になった進が、雑誌室で一年生の田川正成の指導に当たっていた初夏のある日のこと。美智子と館谷の「偽名の文通」という歪な関係に、突如として終止符が打たれる。
それを成したのは、進でも館谷でもなく、美智子と同じ三年生の先輩、狭間崇だった。
狭間は、昼間は大手新聞社の印刷工場で働き、夕方からは定時制高校の野球部で汗を流す、文字通り泥にまみれて生きる硬骨漢だった。
印刷工場での夜勤や過酷な輪転機の騒音に揉まれているせいか、体つきはガッシリとしており、その佇まいには定時制の生徒特有の、腹の据わった大人の風格があった。
狭間は、女子寮の近くで美智子が奇妙な偽名の手紙を後輩から受け取り、怯えるように読んでいる姿を偶然目撃していた。
そして、それが夜逃げした退学者・館谷からのものだと突き止めると、すぐに美智子を校舎の裏へと連れ出した。
「上林、いい加減に目を覚ませ」
狭間の声は、印刷工場の重低音のように低く、圧倒的な説得力を持っていた。
「こんな男が、本当にお前を大切にしていると思うか? 自分の都合で寮を飛び出し、学校も辞めて、今度は大阪のうどん屋だ何だと言い訳を並べて上林を縛り付けているだけだ。そんな不誠実な奴に、上林の貴重な時間をこれ以上無駄にされる筋合いはないだろ」
150センチの美智子は、狭間の170センチを超える大きな体躯に見下ろされ、いつものように手をバタバタとさせて「でも、館谷君も一生懸命で……」と弁明しようとした。
しかし、狭間は彼女の不器用な手振りをその大きな手でそっと制し、まっすぐに諭した。
「本当に一生懸命なら、堂々と会いに来るはずだ。同じ大阪市内に住んでいるんだから。コソコソ隠れるような真似はおかしい。もう、あいつの手紙は受け取るな。別れろ」
その、正論でありながらも美智子の身を心から案じる狭間の強い言葉は、館谷の失踪以来、ずっと張り詰めていた美智子の心の糸をぷつりと切った。
美智子は狭間の前で声を上げて泣き、その場で館谷と完全に決別することを約束したのだった。
【束の間の安堵と、新たな影】
「上林先輩、館谷と本当に別れたらしいぞ」
ある夜、男子寮の吹き出し口からボイラーの乾いた風が送られてくる部屋で、鶴畑が進にそう耳打ちした。
進は、胸の奥の大きな石がようやく取り除かれたような、深い安堵感を覚えた。
これで美智子は、あの軽薄で無責任な男の呪縛から解放される。
これからは、また、あのトントントントンと走る彼女の姿を、穏やかな気持ちで見守ることができるはずだった。
しかし、進のその淡い安堵は、一週間も経たないうちに粉々に打ち砕かれることになる。
放課後、進は、我が目を疑った。
大きなカバンを抱えた美智子が、野球部のユニフォーム姿の狭間と並んで歩いていた。
美智子は顔を真っ赤にしながら、狭間を見上げて嬉しそうに手をバタバタと動かしている。
狭間は、ぶっきらぼうながらも優しい眼差しで彼女の言葉に耳を傾けていた。
二人は、付き合い始めていた。
館谷から美智子を引き離した狭間の男気と、印刷工場での厳しい労働に裏打ちされた「頼りがい」は、傷ついていた美智子の心を一瞬で包み込んでしまったのだ。
「伊崎先輩、どうかしましたか?」
図書館雑誌室。
後ろから、一年生の田川正成が心配そうに声をかけてきた。
手には、配架を待つ新しい経済雑誌の束が握られている。
「……いや、なんでもない。作業を続けよう」
進は窓から目を背け、冷たい声で答えた。
心臓の奥が、冷徹な刃で切り刻まれるように痛んだ。
館谷が消えれば、いつかは自分の生真面目さが届くかもしれないと、どこかで自惚れていたのかもしれない。
しかし現実は、館谷の次に、またしても自分より背が高く、昼間から大人の社会で泥にまみれて働く「三年生の男」が美智子の前に現れ、彼女を連れていってしまった。
【カバンの中の重み、二年生の試練】
その夜の帰り道。学校から寮までの2キロの夜道は、いつも以上に長く、暗く感じられた。
実用自転車のペダルを踏みしめる進の足取りは重い。
学ランの内ポケットには、今もあの信州のハンカチが入っている。
夏休みに小学生の君枝が『すー兄ちゃんのお嫁さんになる人なの』と言って笑い、叔母が『正直で不器用で、かわいい人』と評した、あの小さな少女のためのハンカチ。
(僕は、また一歩も動けないまま、遠くから見ているだけなのか……)
狭間は強い男だ。
昼は新聞のインクの匂いに包まれて工場で働き、夜は野球部で白球を追いかけ、そして美智子を不条理から守り抜いた。
それに比べて自分は、静かな雑誌室でコードを分類し、一年生の面倒を見ているだけの、まだ16歳になったばかりの少年に過ぎない。
夜風が、進の頬を冷たく撫でていく。
館谷の時のような憤りはない。
狭間は、竹を割ったようなサッパリした性格だ。
包容力では、敵わないと感じる相手だった。
進には、狭間に対する圧倒的な敗北感と、自分の「子供さ」への容赦ない突きつけだけが残った。
しかし、伊崎進の生真面目さは、ここで腐ることを許さなかった。
進は自転車のハンドルを強く握り直し、前を向いた。
たとえ今、彼女の隣に別の男がいようとも、自分がここで自分の仕事を投げ出し、学ぶことを辞めてしまえば、それこそ館谷と同じになってしまう。
「伊崎先輩、明日もよろしくお願いします!」
寮の玄関で、先に戻っていた田川が元気に挨拶をしてきた。
「あ、あう……おう、明日も頑張ろう」
少し口籠もりながらも、進は先輩としての顔を作って頷いた。
美智子への想いと、手渡せないままのハンカチを胸の奥深くに沈めながら、二年生の伊崎進は、再び訪れるであろう自分の「季節」をじっと待つように、静かに、しかし確実に大人の男としての歩みを進めていた。




