第4章 館谷の再来
【偽名の便りと、冬の陽だまり】
館谷が夜逃げ同然に姿を消してから、ひと月ほどが経ったある日の放課後。
雪の混じる冷たい風が校舎の窓を叩く。
そんな中、館谷は、何事もなかったかのようにひょっこりと定時制高校に姿を現した。
どこか油と出汁の匂いが染みついた私服のジャンパーを羽織った館谷は、以前よりもさらに痩せて見えた。
しかし、そのギラギラとした目は健在だった。
校門の陰で美智子を待ち伏せると、一枚の小さな紙切れを彼女の手に握らせた。
「大阪市内のうどん屋で、本格的に修行を始めたんだ。今は住み込みの丁稚奉仕で余裕がないけど、生活が落ち着いたら、また付き合いたい」
弁の立つ館谷は、自分の身勝手な失踪を「男の決意」へとすり替え、美智子の心を再び揺さぶった。
一度は絶望の底に突き落とされた美智子だったが、やはり完全に嫌いになることはできず、差し出された連絡先を、縋るようにして受け取ってしまった。
それから、二人の「秘密の文通」が始まった。
しかし、規律の厳しい女子寮に、退学者である館谷からの手紙が届くのは絶対にまずい。
寮の指導員や上級生に目を付けられれば、それこそ美智子の居場所がなくなってしまう。
そこで館谷は、他人のような「偽名」を使って女子寮へ手紙を送り、美智子もまた、細心の注意を払いながら返書をポストに投函するようになった。
進は、そのすべてを知っていた。
美智子はまた、進にだけはその秘密を打ち明けた。
「館谷君、朝の4時から仕込みをしてるんだって。本当に頑張ってるみたい」
美智子は、どこか嬉しそうに、けれどどこか不安そうに、手をバタバタさせながら話してきた。
進の学ランの内ポケットには、あの信州のハンカチが入ったままだ。
進は、自分の胸の奥が冷たく凍りついていくのを感じながらも、ただ静かに「そうですか。身体を壊さないといいですね」とだけ答えた。
まだ15歳の少年にとって、偽名を使ってまで繋がろうとする二人の絆は、あまりにも泥臭く、そして立ち入ることのできない不可侵の領域のように思えた。
【2年目の静寂と、新入りへの眼差し】
季節は巡り、大阪の街に再び柔らかな春の光が差し込む頃。
進は定時制高校の2年生に、美智子は3年生に進級した。
新学期を迎え、大学図書館での進の役割も大きく変わった。
1年間過ごした静かな整理室を離れ、本館の2階にある「雑誌室」へと異動になったのだ。
国内外の最新の学術雑誌や、色鮮やかな一般誌が並ぶその場所で、進はバックナンバーの合本や配架の管理を任されることになった。
そしてもう一つ、進には新しい「義務」が課せられていた。
定時制の1年生として新しく図書館に配属されてきた、田川正成の教育係を務めることになったのだ。
「伊崎さん、よろしくお願いします! 本の扱い方は、まだ全然分からなくて……」
雑誌室のカウンターの裏で、緊張した面持ちで頭を下げる田川は、1年前の進自身の姿を鏡で見ているかのようだった。
北海道から出てきて、生活のためにこの定時制高校の門を叩き、斡旋された職場で必死に生きようとしている少年。
「焦らなくていい。まずは、雑誌の分類コードを覚えることから始めよう。……僕も最初は、先輩に何度も叱られたから」
進は努めて穏やかに、しかし論理的に、一歩一歩丁寧な指導を心がけた。
1年前、早川から受けた冷徹な教育の記憶が、今の進の教育的な優しさへと昇華されていた。
「伊崎さんって、すごく落ち着いてて、なんだか頼りになります」
田川が安心したように笑顔を見せる。
その言葉に、進はほんの少しだけ、自分がこの1年で「大人の階段」を上ったような奇妙な感覚を覚えた。
【届かぬハンカチ、それぞれの歩幅】
図書館の仕事が終わる午後。
進は雑誌室の窓から、春の中庭を見下ろした。
美智子は今も、女子寮の遣いで時折ここを通りかかる。
3年生になった彼女は、やはり相変わらず身長150センチの小さな身体で、自分の体ほどもある大きな茶色の革カバンを抱え、トントントントンと早口で何かを呟きながら小走りで移動していた。
その姿は、1年前と何一つ変わっていないように見える。
しかし、彼女の部屋の机の引き出しには、今も大阪市内のうどん屋から届く「偽名の手紙」が眠っているのだ。
館谷は今、どんな顔をして、どんな言葉を彼女に送っているのだろうか。
進は、学ランのポケットにそっと手を入れ、信州の夏休みに君枝から託されたハンカチの、滑らかな布地を指先でなぞった。
(タイミングが、掴めないな……)
館谷とうどん屋の話が出ている今、このハンカチを渡すことは、彼女の心を余計にかき乱すだけかもしれない。
自分の生真面目さは、時に慎重すぎて、臆病という名のブレーキになってしまう。
「伊崎先輩、この『法学論叢』の最新号、どこに置けばいいですか?」
後ろから、1年生の田川の初々しい声が響く。
「ああ、それは一番奥の棚の上段だ。僕が一緒に行こう」
進は窓から視線を外し、作業に集中しようと試みた。
美智子との距離は、縮まったかと思えば、また遠い霧の向こうへと隠れてしまう。
それでも進は、自分の不器用な歩幅を崩すことなく、目の前の田川を導き、自分の生活を実直に守り続けていた。
秋風が去り、新しい春の風が雑誌室のカーテンを揺らす中、彼の胸に灯った静かな炎は、決して消えることはなかった。




