第3章 館谷の退学
【晩秋の偽りと、突発的な空白】
秋が深まり、大学中庭の木々が赤や黄色に染まる頃になっても、館谷と美智子は相変わらず仲良くお付き合いを続けているように見えた。
進の視線の先で、二人は時折、楽しげに並んで歩いていた。
175センチの細高い館谷が冗談を言い、150センチの美智子が大きなカバンを抱えながら、手をバタバタとさせて笑う。
そんな光景を見るたびに、進はカバンの奥にある信州のハンカチをそっと指先で確かめ、そっとため息をつくだけだった。
しかし、その「仲睦まじい姿」は、館谷が周囲への孤立と劣等感を隠すための、最後の虚勢に過ぎなかった。
11月のある朝、男子寮に激震が走った。
館谷真が、部屋の荷物をすべて引き払い、忽然と姿を消したのだ。
無断外泊の騒ぎではない。
私物の一切が消え失せたそのベッドは、彼が「突発的に寮を出て行った」ことを雄弁に物語っていた。
その日の放課後、何も知らない美智子が、いつものように慌ただしい足取りで校舎の廊下を歩いているのを見かけ、進は意を決して声をかけた。
「上林先輩」
「あ、伊崎君! どうしたの? そんなに怖い顔して」
美智子はいつものように早口で笑いかけようとしたが、進の沈痛な面持ちを見て、その小さな手を胸の前でピタリと止めた。
「……館谷のことです。あいつ、昨夜、寮を出て行きました。私物もすべてなくなっています。学校にも、今日の勤務先にも連絡がないそうです」
「え……?」
美智子は一瞬、進が何を言っているのか理解できないというように、大きな目をさらに丸くした。
「嘘……だって、一昨日も普通に話したよ? 映画に行こうって、約束したばかりだよ?」
「本当です。……行方不明なんです」
進の口から告げられた残酷な事実に、美智子はみるみるうちに血の気を失っていった。
「どうしよう、どうしよう!」
美智子は、いつも以上に両手を激しく、狂ったようにバタバタと動かし、周囲の生徒が振り返るほどに取り乱した。
大きなカバンを床に落としそうになりながら、その場にへたり込んでボロボロと涙を流す美智子を、進はただ、胸を締め付けられるような思いで見つめることしかできなかった。
【一切の決別、大阪の闇へ】
それからしばらくして、館谷は学校に正式な退学届を提出した。
館谷真の突然の定時制高校退学。
それは、恋人であるはずの美智子にさえ一切告げられていない、完全な夜逃げ同然の失踪だった。
(あいつは限界だったのだ)
そう進は思った。
定時制高校が斡旋してくれた「全日制の男子寮勤務」という仕事は、館谷にとって地味で、退屈だった。
何より自分と同年齢でありながら何不自由なく親の金で暮らす全日制の生徒たちへの、耐え難い劣等感を日々刺激され続ける生き地獄だったのだ。
それに加え館谷は、要領が良く弁が立つ一方で、人を見て態度を変えるずる賢さのせいで、定時制の同期たちからは徹底的に嫌われ、寮内でも完全に孤立していた。
その息苦しさに、館谷の細い身体はもう耐え切れなくなっていた。
館谷が選んだのは、学校も、寮も、恋人も、すべてを投げ打っての「実力の世界」への飛び込みだった。
「大阪市内のうどん屋で、住み込みで働く」
それだけの一行を、お世話になった指導員に宛てた書き置きに残し、館谷は自分の口八丁だけを武器に、混沌とした大阪の街へと消えていったのだった。
【凍てつく夜の誓い】
12月。
大阪に本格的な冬の寒さが到来した。
男子寮の壁の吹き出し口からは、ボイラーを動力にした温風がゴーと音を立てて吹き出しており、部屋の中だけは乾燥した暖かさに包まれていた。
進は、隣の布団で静かに天井を見つめている鶴畑に声をかけた。
「……館谷の奴、本当にうどん屋に行ったんだな」
「ああ」
鶴畑が、静かに頷いた。
「あいつの元同室の奴が言ってたよ。誰も信用できないから、誰にも言わずに消えるしかなかったんだろって。だけどさ、いくら自分が辛かったからって、上林さんに一言も残さないのは、やっぱり男として最低だよな」
進は布団の中で、ぎゅっと拳を握りしめた。
あのプールのボランティアの時、館谷の顔色を窺っていた美智子の横顔が、頭から離れない。二回も寮を脱走するほど心が繊細な彼女に、館谷は一番与えてはならない「拒絶」と「孤独」を突きつけて消えたのだ。
(館谷、お前はどこまで無責任なんだ……!)
激しい怒りが進の胸を焦がした。
しかし、それと同時に、進の心の中には、長野の山々に囲まれて育ったあの頑固なまでの「生真面目さ」が、一本の太い杭となって打ち込まれていた。
あいつが美智子先輩を裏切り、傷つけて去ったのなら。
もう、自分が遠慮する理由など、何一つない。
進は起き上がり、自分のカバンの中から、あの信州の夏休みに君枝がくれたハンカチを取り出した。
冷たい冬の月光に照らされたその四角い布を、進はそっと握りしめる。
『すーちゃんが好きになる人って、きっと、嘘がつけなくて、正直で不器用で、それでいて、とってもかわいい人じゃないかしら』
鹿沢の妻が言ってくれたその言葉通りの少女が、今、傷ついて泣いている。
まだ15歳で、大人の世渡りも持たない不器用な少年である進。
しかし進には、「絶対に人を裏切らない誠実さ」があった。
(僕が、あの人を支える。もう二度と、一人で泣かせたりはしない)
翌朝、進はハンカチを学ランの内ポケット深くへと仕舞い込んだ。
冷たい秋風が去り、凍てつく冬の空気の中、15歳の伊崎進は、傷ついた美智子の手を今度こそ離さないと、静かに、しかし生涯を賭けるほどの強い覚悟で、前を見据えていた。




