第1章 美智子と館谷の交際の始まり
【琥珀色の相談室と、すり減る切っ掛け】
6月の終わり、梅雨の湿気が最も色濃くなる頃、進の恐れていた事態は現実となった。
館谷と美智子が、付き合い始めたのだ。
全日制の男子寮勤務で鍛えた館谷の、あの澱みのない口八丁と、都会的なお菓子や小物の差し入れは、女子寮の厳しい上下関係に息を詰まらせていた美智子の心を、あっという間に射止めてしまった。
身長175センチの痩せた館谷と、150センチの小さな美智子が並んで歩く姿は、学内でもひどく目立っていた。
進は、胸が引き裂かれるような複雑な思いを抱えていた。
しかし、持ち前の生真面目さと頑固なまでの自尊心が、彼を「物分かりの良い下級生・良き友人」という役割に押し留めた。
進は何も言わず、ただ二人の行く末を静かに見守ることを自分に課した。
だが、現実は進の想像以上に残酷だった。
付き合い始めて間もなく、美智子はなぜか進に対して、館谷との恋愛相談を頻繁に持ちかけるようになったのだ。
学校の放課後や、2キロの帰り道の途中。大きなカバンを抱えた美智子は、緊張したとき特有の手振りを交えながら、早口で進に語りかけてくる。
「ねえ伊崎君、聞いてよ。館谷君ね、全日制の寮の仕事がすっごく忙しいみたいで、最近あんまり話してくれないの。あんなに最初は色んな話をしてくれたのに……。私、また何か怒らせちゃうようなこと、言っちゃったのかなぁ」
岡山市街地出身の、あの歯切れの良いトーンで紡がれるのは、すべて恋人である館谷への不安と、彼への一途な想いだった。
「……上林先輩。館谷も、昼間の仕事で疲れているだけだと思いますよ。先輩が気に病む必要はありません」
進は、自分の心の奥から血が流れるのを感じながらも、どこまでも親切に、論理的で優しい言葉を選んで応対し続けた。
彼女が困っているなら、助けたい。その一心だった。
しかし、大好きな少女から、別の男への恋慕の情や悩みをぶつけられ続ける日々は、15歳の進の精神を確実に、そして激しく削り取っていった。
夜、寮に戻ると、進は泥のように布団へ倒れ込む日々が続いた。
【限界の限界、ボイラーの風の下で】
「……もう、限界か」
ある深夜、男子寮の四人部屋。
天井の吹き出し口からゴーと吹き出すボイラー室直結の乾いた冷風を受けながら、進は隣の布団の鶴畑に、掠れた声で漏らした。
同室の他の二人は、すでに高いいびきをかいている。
「伊崎、お前、最近顔色が死人みたいだぞ。毎日、上林さんの惚気だか相談だかを聞かされてるんだって?」
鶴畑は、暗闇の中で眉をひそめた。
「惚気ではない。彼女は、真剣に悩んでいるんだ。だから、僕が聞いてあげないと……」
「お前な、生真面目にも程があるよ」
鶴畑は呆れたように、しかし心底進を心配する声で言った。
「上林さんはな、お前のその『岩みたいにブレない優しさ』に甘えてるんだよ。館谷との間で不安定になった心を、お前という安全地帯で調整してるんだ。そんなの、お前の心が何枚あっても足りないだろ」
進は、乾いた冷風をじっと見つめた。
分かっていた。
自分の心が悲鳴を上げていることは、自分が一番知っている。
それでも、美智子を突き放すことなど、進の辞書にはなかった。
世渡りの術を持たない15歳の少年ができる、それが唯一の「誠実さ」の証明だったからだ。
【進の限界、優しさの果て】
その後も、美智子は館谷と交際し、関係を深めて行った。
様々なレジャー施設やエンターテインメントを満喫する2人。
進は、その話を毎日のように両方から聞かされていた。
「遊園地、楽しかったぜ」
館谷が自慢げに言う。
「お前も早く、彼女作れよ」
館谷は知っている。
進が美智子のことを好きで、たまらないことを。
それでいて、わざと言っているのだ。
「楽しくて良かったな」
そう返すのが精一杯の進だった。
「伊崎君!」
翌日の定時制高校の帰り道。
上林美智子が進に声をかける。
「上林先輩、どうしましたか」
「私、最近、悩みが多いの。聞いてくれる?」
(また始まった)
美智子は最近、恋愛の相談を進にすることが多くなっていた。
「…それでね、館谷君がね…」
美智子が早口でまくし立てる。
進は、ひたすら聞き役に回っていた。
アドバイスなどしようもなかった。
進は、今まで女性と付き合ったことはない。
だから、恋愛の相談になど乗れなかった。
そのことを美智子に伝える進。
しかし美智子は言った。
「他に相談する人がいないの」
そう言われると進は、相談に乗るしか無かった。
頼られる嬉しさと、恋人ではない悲しさ。
進の中に、複雑な感情がうごめいていた。




