第4章 作戦会議
【すれ違う夕暮れ、近づく足音】
夜の2キロの道のりで交わしたあの穏やかな会話から、わずか数日。
進の淡い安らぎは、激しい焦燥感へと塗り替えられることになる。
六月も半ばを過ぎ、ボイラー室から送られてくる風が、男子寮の部屋をどれだけ乾かそうとも、進の胸の内のモヤモヤとした湿気までは吹き飛ばせなかった。
その日の昼下がり、進は図書館の整理室の窓から、決定的な光景を目撃してしまった。
中庭の向こう、大学の事務棟へと続く舗装路を、美智子と館谷が並んで歩いていたのだ。
それだけなら、いつもの「女子寮の遣い」の途中でたまたま出くわしただけだと思いたかった。
しかし、二人の距離は明らかに以前より近かった。150センチの美智子は、いつもの大きなカバンを抱えながら、館谷の175センチの細高い身体を見上げるようにして、楽しげに笑っている。
館谷が時折、彼女の肩に触れんばかりに距離を詰め、身振りを交えて熱心に語りかけていた。
美智子のあの、緊張したときに出る変な手振りが、館谷の前でも弾むように動いている。
それは一見すると、二人が急速に親密さを増している証拠のようにしか見えなかった。
進の持つラベル貼りのハサミが、冷たい音を立てて机に置かれた。
「伊崎君、手が止まってるわよ。何か気になることでもあるの?」
隣の席の早川が、眼鏡の奥の鋭い目で進を咎めるように見つめてきた。
「……いえ、なんでもありません」
進は喉の奥を強張らせ、冷たい声で答えるしかなかった。
館谷は、全日制の男子寮で鍛え上げたその「弁の立つ口」をフルに活用しているのだろう。
おとなしい全日制の生徒たちを相手に培った、相手の懐にするりと入り込む話術。
それが、不器用で、いつも周りの厳しい上下関係に息を詰まらせている美智子にとって、心地よい救いになっているのかもしれなかった。
【深夜の作戦会議、暗室の住人のアドバイス】
その日の深夜。
男子寮の四人部屋では、同室の他の二人が泥のような睡眠に落ち、壁の吹き出し口からゴーという乾いた冷風だけが静かに鳴り響いていた。
進は、隣の布団で仰向けになって寝そべっている鶴畑に、耐えかねたように小声で話しかけた。
「……鶴畑。起きているか」
「ん? ああ、伊崎か。また上林さんのことか?」
鶴畑は頭の後ろで腕を組んだまま、眠そうな目で進を見た。地下の写真室で、貴重な古文書のレプリカ撮影という極めて緻密な補助業務をこなしている鶴畑は、夜になるといつも疲れ果てている。
しかし、進のただならぬ気配を察して、わずかに身体を起こした。
「……上林先輩が、館谷と急に親しくなっているように見えるんだ。昼間、中庭で二人でいるのを見た。美智子先輩も、すごく楽しそうに笑っていた」
進は、自分の指先をじっと見つめながら言った。胸の奥が、嫉妬と無力感で引き裂かれそうだった。
鶴畑はフゥと、ボイラーの風の音に混ざるような深い溜息を吐いた。
「やっぱりな。俺も地下の写真室から総務課へ行く途中でさ、上林さんの噂をちょっと耳にしたんだよ。館谷の奴、全日制の寮勤務だろ? あいつ、全日制の生徒の親から差し入れでもらった、都会の珍しいお菓子とか、綺麗な便箋なんかを、上手く上林さんに融通してるらしいんだ。上林さん、岡山の市街地出身だし、そういうちょっと小洒落たものに、ついつい惹かれちゃったのかもな」
進は言葉を失った。
自分には、そんな気の利いた贈り物はできない。
図書館の所蔵本を借りて渡すのが精一杯だった。
「館谷はさ、口が上手いだけじゃなくて、相手が欲しいものを察して動くのが異常に早いんだよ」
鶴畑は少し苦い顔をして続けた。
「あいつ、定時制の同期からは徹底的に嫌われてるけど、そういう『取り入る技術』だけは一級品だからな。伊崎、お前みたいに『じっと待って、送るだけ』じゃ、あいつのスピードには勝てないぞ」
「僕は、あいつみたいに器用に立ち回ることはできない」
進の声には、隠しきれない焦りと、己の生真面目さに対するもどかしさが滲んでいた。
「分かってるよ。お前は長野の山奥の、松本だか塩尻だかで、生真面目に実直に育ってきたんだもんな。盛岡育ちで都会ぶってる館谷とは人種が違う。……でもな、伊崎」
鶴畑は、進の肩をぽんと叩いた。
「上林さんは、二回も寮を脱走するくらい、あの女子寮のガチガチの規律に苦しんできた人だ。館谷の軽薄な優しさは、今は新鮮で楽しく見えるかもしれないけど、本当に心が疲れたときに必要なのは、あいつの調子のいい言葉じゃない。お前みたいな、絶対に嘘をつかない、岩みたいにドシッとした生真面目さのはずだ。あいつがどんなに急接近しようが、お前は自分の歩幅を崩すなよ」
鶴畑のその言葉は、暗闇の中で進の胸に深く染み渡った。
まだ法律の知識もなく、大人の世渡りも知らない15歳の少年。
しかし、不条理な現実に耐え、自分の足で立とうとする意志の強さだけは、館谷には絶対に負けない自信があった。
「……ありがとう、鶴畑」
進が静かに言うと、鶴畑は「おう、早く寝ろよ」と言って、再び布団に潜り込んだ。
(僕も小さい頃は名古屋にいたんだ。根っからの田舎育ちじゃないんだけど)
進はそう思ったが、余計なことは言わないことにした。
ちなみに、鶴畑は、神戸の市街地出身だ。
内心では、盛岡を都会だなんて思っていないかだろう。
第一、この定時制高校も寮も大阪市にある。
(よく、大阪で「盛岡が都会だ」なんて自慢できるな)
それも、進は敢えて言わなかった。
壁からの乾いた冷風が、進の熱くなった頭を少しだけ冷やしていく。
学校から寮までの2キロの夜道、美智子が言ってくれた『伊崎君と話してると安心する』という言葉を、進は胸の中で何度も、何度も反芻していた。
館谷の猛烈なアプローチを前に、15歳の伊崎進は、自らの不器用な誠実さだけを武器に、静かに前を見据えていた。




