第3章 ライバルとの静かな対決
【湿った夜の洗面所、冷徹な高低差】
その日の深夜、定時制高校の男子寮の一階にある共同洗面所は、湿った洗剤の匂いに満ちていた。
壁の吹き出し口からは、ボイラー室直結の乾いた冷風が微かに届いていたが、何台もの全自動洗濯機が唸りを上げるこの場所までは、その恩恵はなかなか行き渡らない。
ガタガタと激しく身を震わせる洗濯機の前に、進は一人で立っていた。
15歳の彼の身長は163センチと小柄で、実用自転車のペダルを黙々と踏みしめる日々の中で引き締まった身体つきをしていた。
洗濯窓の向こうで渦巻く作業着や学ランを見つめながら、彼の頭の中には、昼間に中庭で見かけた美智子と館谷の姿が、苦い澱のように残り続けていた。
「よお、伊崎。こんな時間まで洗濯か? 生真面目なこった」
不意に背後から声をかけられ、進は肩をわずかに強張らせた。 振り返ると、違う部屋の同期、館谷真が、プラスチックの洗面器を小脇に抱えて立っていた。
館谷の身長は175センチほどあり、小柄な進を見下ろす形になる。
しかし、その身体は異様なほどに痩せ細っており、体重は50キロにも満たない。
薄い胸板を丸め、猫背気味に立つ姿はどこかカマキリを連想させたが、その眼光だけは妙にギラギラと鋭かった。
館谷の勤務先は、同じ系列学園の全日制男子寮だ。
全日制の生徒の多くは、おとなしく、お坊ちゃん気質な者が多かった。
そのため、寮の雑用といっても、彼らから理不尽な暴力を振るわれるようなことはない。
むしろ、館谷は持ち前の弁の立つ軽妙な口調で、そんな全日制の生徒たちの懐にずる賢く飛び込み、上手く打ち解けて立ち回っていた。
しかし、その如才なさは、定時制の同期たちの間では全く通用しなかった。
それどころか、館谷の計算高い性格や、人によって態度を変える小賢しさを、嫌う同期からは徹底的に嫌われていた。
「館谷か。……そっちこそ、今から風呂か」 進が淡々と答えると、館谷は薄い唇を吊り上げて笑った。
「ああ、全日制のぼんぼんどもの相手は疲れるよ。あいつら大人しいけど、手際が悪くてさ。……そういやさ、伊崎。お前、大学女子寮勤務の上林さんって知ってるだろ?」
心臓がドクリと跳ねた。
進は洗濯機から目を離さず、表情を一切変えずに「名前くらいは」と短く返した。
「あの人、いいよな」
館谷は洗面台の縁に腰掛け、細い足をぶらつかせながら、饒舌に喋り始めた。
「背が150センチくらいしかなくてさ、俺の胸のあたりまでしかないんだよ。いつもあのでっかいカバン抱えて、トントントンって早口で喋りながら走ってて。こないだ中庭で話しかけたらさ、緊張したのか手をバタバタさせて『わちゃあ!』とか言ってんの。あれは男なら誰でも放っておけなくなるって」
進は拳を握りしめた。
館谷は、進が美智子とどんな関わりを持っているかも知らず、もちろん進が図書館の整理室でどんな仕事をしているかも知らない。ただ、自分の「戦果」を自慢するように言葉を重ねる。
「やっぱりさ、女の子はあぁいう都会っぽい垢抜けた感じがいいよな。上林さん、岡山市内の市街地出身だろ? 岡山って言っても結構な都会だからさ、やっぱり言葉のテンポとか、立ち振る舞いが洗練されてる。……あ、ごめん。伊崎にはこういう話、ちょっと分かんないか」
館谷はわざとらしく口元を押さえ、薄笑いを浮かべた。
「お前、確か長野の……松本とか、塩尻だっけ? あの辺って、確か夜になると星しか見えなくて、走ってるのは軽トラとタヌキだけっていう、のどかな場所なんだろ? 静かでいいところだけどさ、やっぱり人間、育った環境の情報の『密度』って、喋り方に出るよな。上林さんのあのテンポの良さは、やっぱり山に囲まれた場所じゃ育たないっていうか」
遠回しに、進のことを「田舎者」とバカにしているのだ。
館谷自身は岩手県の盛岡市生まれ、盛岡市育ちだった。
地方都市とはいえ、県庁所在地である盛岡の市街地で育ったという自負が、館谷にはあった。
だからこそ、長野の山深い地域出身の進を、直接的ではないにせよ、小馬鹿にしたような物言いで突いてくる。
進は、館谷の顔をまっすぐに見据えた。
その瞳には、怒りではなく、冷徹な軽蔑が宿っていた。
「上林先輩の魅力は、出身地が都会かどうかは関係ありません。……それから、僕の故郷をバカにするのは勝手ですが、洗濯機が止まるので、そこを退いてくれませんか」
進のあまりにブレない、冷ややかな正論に、館谷は一瞬だけ表情を強張らせた。
しかし、すぐにまた鼻で笑い、「真面目だねえ、相変わらず」と言い捨てて、浴場の方へと去っていった。
脱水に入った洗濯機の激しい振動の音が、進の耳にいつまでも響いていた。
【2キロの夜道、届かない距離】
学校から男子寮までは、約2キロの距離がある。
定時制の生徒たちにとって、夜の10時過ぎ、授業を終えてから寮までのこの2キロの道のりは、労働と勉強の疲れがドッと押し寄せる過酷な時間だった。
歩き、あるいは自転車で、誰もが黙々と暗い夜道を急ぐ。
進は、自分の古びた実用自転車を押しながら、ゆっくりと歩いていた。
現実として、進が学校以外で美智子と会うことは、滅多になかった。
美智子の働く女子寮は、大学のキャンパスでも奥まった場所にあり、進がいる本館の図書館近くへ彼女が来る用事など、滅多にない。
あの、女子寮の遣いでたまに書類を届けに来る姿を、窓越しに遠くから目撃するくらいが関の山だった。
(館谷は、弁が立つ。あいつなら、上林先輩を笑わせることができる……)
自転車のサドルに手を置きながら、進は自分の手のひらを見つめた。
163センチの小さな身体。
口下手で、冗談一つ言えず、ただ「本を貸す」という、生真面目すぎる方法でしか彼女に近づけなかった自分。
夜道の向こうに、女子寮へと続く坂道が見える。
その時、前方からトントントントンと、聞き覚えのある足音が響いてきた。
「あ、伊崎君!」
街灯の薄暗い光の中に現れたのは、やはり美智子だった。
今日も夜間授業を終え、大きなカバンを抱えるようにして歩いている。
彼女の出身である岡山市の市街地の話通り、どこか都会的な、ハキハキとしたイントネーションが夜の空気に混ざる。
「上林先輩。……遅いですね」 進が足を止めると、美智子は嬉しそうに駆け寄ってきて、進の目の前で手をバタバタとさせた。
「そうなの! 4年生の先輩に、寮の戸締まりの確認をもう一回やってきなさいって言われちゃって、ちょっと遅くなっちゃった。伊崎君は、自転車? 歩き?」 「歩いて帰るところです。……あの、館谷と、何か話していましたね」
進は、自分の口から出たその名前に、自分で驚いていた。
いつもなら、そんな野次馬のような質問は絶対にしないはずなのに。
美智子は一瞬、大きな目をまた丸くして、「ああ、館谷君!」と言った。
「うん、なんか中庭で急に話しかけられてさ。全日制の寮の話をしてくれたんだけど……あの人、すっごくお喋りが上手だよね。私、圧倒されちゃって、何喋ったかよく覚えてないんだけど、なんか変な手振りしちゃって恥ずかしかったなぁ」
美智子は照れくさそうに笑った。
その笑顔には、館谷に対する特別な感情があるようには見えなかった。
ただ、誰に対しても同じように、一生懸命に応対してしまう彼女の優しさが、そこにあるだけだった。
「……そうですか」 進は、少しだけ胸のつかえが取れるのを感じた。
「伊崎君?」 美智子が、進の顔を覗き込んできた。
その距離の近さに、進の163センチの視線が、美智子の150センチの瞳とまっすぐに交差する。
「私さ、伊崎君と話してると、すっごく安心するんだよね。館谷君みたいに面白いことは言えないかもしれないけど、伊崎君は、私の話をちゃんと『待って』くれるでしょ? 私、喋るの焦っちゃうから、そうやって静かに聞いてくれるの、本当に嬉しいんだ」
美智子は、はにかむように微笑んだ。
夜の2キロの道のり。街灯の下で立ち話をする二人の影は、アスファルトの上に小さく並んでいた。
館谷がどれほど弁を振るおうと、進の実家がどれほど山奥の田舎であろうと、そんなものはこの静かな時間の前には何の意味も持たなかった。
「……寮まで、送ります。荷物、重そうですから」
「えっ、いいの!? 嬉しいなぁ。じゃあ、岡山のお祭りの話、お詫びにたくさんしちゃうね!」
早口で喋りながら、また不思議な身振りを始める美智子の隣で、進は自転車のハンドルを握り直し、ゆっくりと歩き出した。
15歳の夏、二人の距離は、この暗い夜道の中で、確かに熱を帯びながら縮まり続けていた。




