第7話 震える手と侯爵家への帰還
ベッド端でコレットの手が震えた。皮膚の下を微かな電流が走る。
めまいが視界を揺らす。額に冷たい汗がにじむ。彼女はベッドフットチェストに腰を下ろす。
背筋を伸ばす。吸って、吐く。肺が重い。指先の震えが止まらない。
「……水」
ナイトスタンドのグラスに手を伸ばす。指が滑る。水がこぼれ、肌を濡らす。
コレットは目を閉じる。深く息を吸い込む。吐く息で胸の塊が少し溶ける。
再びグラスを持つ。今度は両手で抱える。冷たいガラスが皮膚に触れる。
彼女はゆっくりと口を傾ける。水が舌を伝う。喉が渇きを覚えていた。
グラスを置く。手の平を見つめる。震えが消えていない。でも、少し軽くなった。
「大丈夫」
窓辺でセーラが残した言葉を思い出す。その温もりが、胸の奥で静かに灯る。コレットの指がベッドフットチェストを開ける。革の手帳が現れる。
背表紙が彼女の掌に収まる。重みが確かだ。ページを開く音だけが部屋に響く。
最初のページにアルヴィンの名が記されている。彼女の視線がそこで止まる。心拍が胸を押す。
「行かなくては」
声は乾いて割れる。舌が上顎に張り付く。
手帳をめくる。持ち物リストの文字が揺らぐ。めまいが視界の端を掠める。
彼女は立ち上がる。足元がふらつく。頭がぼうっとする。
収納へ歩み寄る。膝が震える。荷物が整然と並んでいる。
指が婚約指輪を撫でる。銀の冷たさに皮膚がぞわつく。しかしその下から微かな温もりが滲む。
貴族の身分証明書。記録手帳。財布。簡易魔術の道具セット。
一つひとつ視覚で確認する。手で触れる。存在を刻み込む。
必要なものは全て揃っている。彼女の呼吸が少しだけ深くなる。
ヴィルトヘイム王国で生きる備えは、ここにある。
コレットは手帳を閉じる。背筋を伸ばす。深く息を吸い、吐く。
震えはまだ残っている。でも、もう前を見られる。窓辺の温もりを背に、彼女は動き出した。セーラが去った後の空気は軽い。コレットの指はナイトスタンドの手帳を探る。
革表紙が冷たい。頁をめくる音だけが部屋に響く。数字と記録の海が、一瞬揺らぐ。彼女はゆっくりと手帳を閉じた。音は消えた。
「まだ、震えてる」
自分の声に眉をひそめる。口の中は砂のようだ。彼女はベッドフットチェストの上に置かれた小さな鞄を引き寄せる。
指先が収納の留め金を開ける。中には、銀の指輪と羊皮紙の身分証。指輪が微かに光る。皮膚がぞわっとした。
コレットは素早く鞄を閉めた。立ち上がる。足元がふらつく。頭がぼうっとする。額が重い。
「……鏡」
彼女は足を引きずるように部屋の隅へ向かう。壁にかけられた鏡が、青白い顔を映す。
目は少し窪んでいた。髪が重たく肩にまとわりつく。彼女は背筋を伸ばす。顎を引く。肩を落とす。
鏡の中の娘が、同じ動きを繰り返す。婚約者としての顔。侯爵令嬢としての姿勢。彼女はそれをひとつずつ、神経に刻み込む。
心臓が胸の内側を押す。鼓動が耳に響く。彼女は静かに息を吸い込む。吐く。震えが少しだけ弱まった。
彼女は最後に鏡を見つめた。それから、ゆっくりと背を向ける。玄関への道を、一歩踏み出した。
***
彼女は玄関のドアを開ける。朝の冷気が顔を撫でる。
敷石の道が侯爵家の屋敷へ続く。彼女は一歩を踏み出す。足音が石に吸われる。
「戻るんだ」
コレットは胸に手を当てた。指先が薄い布地の下で、指輪の輪郭を探る。
道の両脇に草花が揺れる。朝露が靴先を濡らす。視線を落とさず、前だけを見る。
侯爵家の門が見えてきた。門番が微かに頭を下げる。彼女は軽く頷き返す。
中庭を横切る。噴水の音が背中を押す。彼女は歩幅を大きくした。
母屋の扉に
***
母屋の扉に手をかける。木の重みが手のひらに伝わる。
扉が静かに開く。大理石の床が冷たく靴底を迎える。
「お帰りなさい、お嬢様」
執事が一礼する。コレットは黙礼で応えた。
階段を上る。手すりの木目が指の下を流れる。一段ごとに侯爵家の娘へ戻っていく。
廊下の窓から朝日が差す。彼女の影が長く伸びる。歩幅が自然と狭くなる。
部屋の前で立ち止まる。ドアノブが金色に光る。深く息を吸い、吐く。
「よし」
彼女はノブを回した。彼女はベッドの中で目を覚ました。暗闇が天蓋を覆っている。
胸が高鳴る。悪夢の名残が皮膚に張り付く。冷たい汗が首筋を伝う。
「……アルヴィン様」
コレットはそっと胸に手をやった。布の下で指輪の硬さを確かめる。
窓の外がほの明るい。まだ夜は深い。彼女は羽根布団をしっかり握りしめた。
瞼を閉じる。アルヴィンの笑顔が浮かぶ。金色の髪、蒼い瞳。
鼓動が少しずつ静まる。指輪の存在が心を支える。
再び眠りが訪れる。今度は暗い森の夢にならないように祈る。
呼吸が深くなる。身体の力が抜けていく。
朝が来るまで、指輪を握ったまま。彼女の書斎の机の上が空白を待っていた。羊皮紙が広がり、インク壺の蓋が開け放たれる。
コレットはペンを手に取った。指先が軽く震え、銀の軸が冷たい。伝えたい言葉が喉の奥で渦巻く。
窓の外で鳥の声がする。彼女は視線を上げた。庭の白百合が朝露に濡れている。
「アルヴィン様へ」
ペン先が紙に触れる。インクが染み、最初の一文字が生まれた。
彼女は息を止めた。胸の奥で指輪が温かい。背筋が伸び、震えが止まる。
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