第6話 謎のメモと選んだ海岸
コレットの手にあったのは、一枚の皺くちゃなメモだった。
「危険。すぐに、侯爵家の自分の部屋へ。」
文字は焦げたような走り書き。彼女の知らない筆跡だ。
雨音が突然、耳障りに変わる。窓の外の闇が、重くのしかかる。
コレットは足音を立てずに部屋を出る。廊下のランタンは既に消えていた。
手探りで階段を下りる。暗闇が吐息を奪う。
玄関までたどり着く。彼女は扉の鍵に手を伸ばす。
その時、二階から物音がした。鈍い、引きずるような音。
コレットは息を飲む。鍵を回す手が震える。
扉が軋み、外の冷気が流れ込む。
彼女は家を飛び出した。雨が顔を叩く。
敷石の道を、侯爵家の屋敷へと駆ける。
背後から、追うような足音が響く。振り返れば、闇だけがあった。
屋敷の門が見える。警備の灯りが、わずかな安心をくれた。
コレットは門をくぐり、屋敷の玄関に駆け寄る。
大理石の床が、彼女の足跡で濡れる。
ようやく自分の部屋の前。彼女は扉に背を預け、肩で息をした。
胸の中では、謎のメモと不気味な訪問者の影が、ぐるぐると渦巻いている。 ベッドの中で、コレットは目を覚ました。汗で冷えた肌が羽根布団に張り付く。
悪夢の残像が網膜に焼きついている。エルメリクの冷笑、リリィの嘲笑、そして自分が追放される光景。彼女は震える手で胸を押さえる。心臓が早鐘を打つ。
ふと、左手の薬指を見下ろす。闇の中、指輪がかすかに鈍く光る。アルヴィンがくれた約束の証だ。
「……大丈夫」
彼女は小声で呟くと、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。
窓の外はまだ暗い。夜明け前の静寂が部屋を包む。コレットはそっと起き上がり、ナイトスタンドに手を伸ばした。ハーブサシェを手に取る。
ラベンダーの香りが漂う。緊張が少しずつほぐれていくのを感じた。
再びベッドに横になる。天蓋の影が優しく揺れる。彼女は指輪を握りしめ、目を閉じた。
今度は別の光景が浮かぶ。アルヴィンの笑顔、彼が差し伸べた手。ヴィルトヘイムの青い空。
「私の選択だ」
コレットは布団の下で拳を固くする。悪役令嬢の運命など、もう恐れない。この指輪が、彼女の新たな道を照らす。
やがて、深い眠りが訪れた。呼吸は穏やかになり、握りしめた拳も緩む。指輪は闇の中で、静かな輝きを保ち続けていた。手紙の用紙が一枚、机の上に置かれた。それだけだ。
コレットは椅子に座り、じっとそれを見つめる。ペンは手に持たず、インクの瓶の蓋も閉じたまま。彼女の指が、机の端を白くなるまで押す。
伝えるべきこと。それは山ほどある。夜の訪問者。謎のメモ。悪夢。震える心。
だが、一番伝えたいことは言葉にならない。婚約が偽りではないかという恐れ。彼が真実を隠しているという疑念。
彼女はそっと左手を上げる。指輪が朝の光を受けて輝く。この光は本当なのか。
窓の外で、馬車の車輪の音が遠ざかる。アルヴィンの外出だ。
コレットは肩の力を抜く。伝える必要はない。今は。
「……ご無事で」
***
馬車の車輪が小石を弾き、ガタンという音が響く。
コレットは座席の隅で背筋を伸ばす。揺れが腰に伝わる。心臓が肋骨を打つ。彼女は目を閉じる。
「……ひとつ、ふたつ」
息を吸い込む。肺が冷たい空気で満たされる。吐き出す。白い息が揺れる。
左手の人差し指が、無意識に右手の甲を撫でる。爪が肌に引っかかる。痛みが走る。
差出人不明の手紙の言葉が、頭の中で渦を巻く。『彼の真実』『隠された誓い』。
彼女は目を見開く。馬車の天井の木目を見つめる。涙が溢れないように、瞬きを繰り返す。
指が左手の薬指へと滑る。銀の指輪に触れる。金属は冷たい。
だが、その冷たさの奥から、ほんのりとした温もりが湧いてくる。あの夜、アルヴィンがこの指を包んだ掌の温度だ。
「……嘘じゃ、ない」
コレットは深く息を吸った。雑音が消える。心拍がゆっくりと落ち着いていく。彼女はもう、手紙の言葉に囚われない。
窓の外を、海を目指して飛ぶ鳥の群れが横切る。
***
馬車は海岸へ向かう。コレットの背筋が伸びた。腰に揺れが伝わる。心臓が肋骨を打つ。
窓の外を、白い波が一瞬光る。海の匂いが風に混じる。
彼女の左手は膝の上にある。右手がそっと薬指の指輪を覆う。銀はまだ冷たい。
だが、その下の皮膚は温かい。アルヴィンの掌の記憶が、じんわりと蘇る。
「大丈夫」
彼女は呟く。声は揺れない。
差出人不明の手紙の言葉は、もう渦巻かない。『隠された誓い』は霧のように散った。
コレットはゆっくりと息を吐く。目を開ける。遠くに青い水平線が見える。
これから向かうのは、彼女自身の選んだ海岸だ。
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