第2話 朝の決意と白い蕾
朝食の席は整えられている。コレットは手をつけない。
胸の奥がぎゅっと縮む。喉の奥がひりつく。指先は氷のように冷たい。
彼女は深く息を吸う。吐く。鼓動が耳元で鳴る。目を閉じる。
「今日は、市場には向かわない」
窓辺に立つ。朝の光が差す。手のひらにじっとり汗が滲む。肩が重い。
エルメリクの顔が脳裏を掠める。軽蔑が胃の底で渦を巻く。
「愚かな……」
呟きは震えない。しかし歯を食いしばる顎に力が入る。後悔が胸を締め付ける。
あの時、もっと違う手があったのではないか。その考えが頭をよぎる。
彼女は椅子に戻る。テーブルに肘をつく。額を手のひらに預ける。
体温が下がる。手足が鉛のように重い。
深く、もう一度呼吸をする。目を開ける。テーブルの上にアルヴィンの手紙がある。
「今、ここにいるのは私だ」
自分の声を確認する。震えはない。冷たい指で手紙に触れる。ほんのり温もりを感じる。
立ち上がる。背筋を伸ばす。重い足を一歩前に踏み出す。
心臓の鼓動はまだ速い。しかし、一つの決意がその音を打ち消し始めていた。 机の上の朝食は手つかずだ。紅茶の湯気だけが細く揺れている。
コレットは窓辺に立つ。王都中央市場の喧噪が、ガラス越しに鈍い響きで届く。
「……行く理由が、変わった」
胸の奥で鼓動が一瞬速くなる。冷えた指が窓枠に触れる。以前は婚約者としての作法を学ぶ場だった。今は違う。
彼女は深く息を吸う。吐く。胃が軽く攣る。準備は必要だ。
コレットはテーブルに戻る。銀のナイフを持つ。指に冷たい重みを感じる。
「異国の香辛料…ヴィルトヘイムの作法…」
声は独り言のように低い。記憶のアルヴィンは、市場で笑っていた。その顔が脳裏を過る。
ナイフを置く。パンに手を伸ばすが、喉を通らない。
立ち上がる。ドレスの裾が床を撫でる。重い足を玄関に向ける。
心臓がまた速く打つ。今度は不安ではなく、決意の鼓動だ。
「行こう」
彼女は扉を開ける。市場の雑踏が一気に流れ込んできた。馬車の音が近づく。コレットの手は玄関の扉から離れる。
彼女は部屋に戻る。足取りは重いが迷いはない。テーブルの上の手紙を見つめる。胸の奥で鼓動が鳴る。それは速く、深い。
椅子に座る。背筋を伸ばす。息を吸い、ゆっくり吐く。指先の震えが止まる。
ペンを取る。手紙を引き寄せる。筆記具の重みが指に伝わる。
「アルヴィン様へ」
最初の一文字が紙に刻まれる。心臓の高鳴りが次第に静まっていく。
***
朝の光が窓辺を白く染める。ドレスの裾が椅子の縁に触れ、とまった。
コレットは手帳を開く。ペン先が紙の上に浮いている。
彼女は目を閉じる。深く息を吸い込む。肺が冷たい空気で満たされる。
吐く息が緩やかだ。肩の力が少し抜ける。心臓の鼓動が耳元で響く。
目を開ける。手帳の空白が広がる。ペンを持つ指が軽く震える。
「私は……もう囚われていない」
ペン先が紙に降りる。文字が走り始める。
アルヴィンの名を書く。その横に、破棄された婚約の日付を記す。
手が止まる。胸の奥が締め付けられる。
もう一度深呼吸する。窓から差す光が手の甲を暖める。
ペンを握り直す。今度は力強く筆記する。
「運命は変えられる。悪役令嬢の結末など、私のものではない」
文字がページを埋める。書くごとに、体の重さが少しずつ減っていく。
鼓動が静かになる。喉の渇きが和らぐ。
最後の一文字を書き終える。彼女は手帳を見つめたまま、静かに微笑んだ。 窓辺の手帳の横に、小さな鉢植えが置かれていた。白い小さな蕾を一つつけている。
コレットは指先でそっと葉に触れる。肌に微かなざらつきを感じる。
「おはよう。今日は友人が来るの」
彼女の声はかすれていた。喉がひりつくように渇いている。
胸の奥で脈がドクドクと鳴る。肩の筋肉が硬くこわばる。
ドアが軽くノックされる。音は優しく、控えめだ。
コレットは姿勢を正す。深く息を吸い込み、立ち上がる。
「どうぞ」
扉が開く。セーラが現れる。彼女の手には水差しと小さな袋があった。
コレットの口の中が砂のように乾く。挨拶の言葉が喉でつかえる。
「こんにちは、コレットさん。お花の様子を見に来ました」
セーラの声は柔らかい。彼女はそっと窓辺に近づき、鉢植えを覗き込んだ。
コレットの手が軽く震える。自分がここにいる理由を思い出そうとする。
「ありがとうございます。私は……ただ見ていただけです」
セーラは水差しを置く。袋から小さなスプーンを取り出す。
「少しお手伝いしましょうか。土の状態を整えると、蕾が開きやすくなります」
コレットはうなずく。しかし足が動かない。全身にだるさがまとわりつく。
セーラがそっと土にスプーンを差し込む。細かな音が静かな室内に響く。
「この子は強いんですよ。少し手を貸せば、きっと咲きます」
その言葉が胸に刺さる。コレットの目が熱くなる。
「私……アルヴィン様に嘘をつきました」
声が震える。喉が締め付けられる。
「ゲームの記憶を持っていること。破棄される運命を知っていたこと」
吐息が浅く速くなる。心臓が早鐘のように打ち続ける。
「それなのに、彼の優しさにすがりました」
コレットの手が胸に当たる。鼓動が手のひらに伝わる。
セーラはスプーンを止める。ゆっくりと顔を上げる。
「コレットさん。あなたは今、ここにいます」
「でも……」
「過去に囚われる必要はありません。この蕾のように、今を生きればいい」
セーラが水差しを手渡す。コレットの指が冷たい陶器に触れる。
「あなたの罪悪感は、あなたが誠実な証です。それを認める勇気があれば」
コレットは水差しを握りしめる。重みが腕に伝わる。
彼女はゆっくりと鉢植えに近づく。膝をつき、水を注ぎ始める。
水が土に染み込む。蕾が微かに揺れる。
コレットの頬を一粒の涙が伝う。それは温かく、軽かった。 セーラはそっと立ち上がり、無言で部屋を出た。扉が閉まる音が静かに響く。
コレットは窓辺に残った。手に持った水差しが重く感じる。胸の鼓動が耳の奥で鳴る。
「……ふう」
深く息を吐く。肩の力が少し抜ける。しかし手足のこわばりは残る。
彼女はゆっくりと部屋の中央へ歩く。足取りは重い。床板がきしむ。
テーブルに手をつく。冷たい木の感触が指先に伝わる。
やかんを取り、湯を注ぐ。湯気が立ち上る。茶葉の香りが広がる。
カップを持つ。温もりが手のひらを包む。そっと一口含む。
熱い液体が喉を通る。体の内側から少しずつほぐれていく。
彼女は手帳を開く。ペンを持つ。指先の震えが止まっている。
白い紙面が、今の気持ちを待っている。
「アルヴィン様との思い出……それは偽りではなかった」
文字が走り出す。勢いがある。心臓の音が静かだ。
「セーラの言葉が、私を今ここに繋ぎ止めた」
書く手が止まらない。ページが埋まっていく。
「過去の罪悪感に囚われず、今この蕾を咲かせよう」
最後の一文字を書き終え、彼女はペンを置いた。手の平に軽い汗を感じる。
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