仲間を思わば
六二一年の五月、竇建徳は虎牢関の戦いで敗れ、その身は長安へと送られた。
そして、七月のある夜。竇建徳は自らが捕らえられている牢に何者かが近寄る足音を聞いた。
「食事をお持ちしました」
「かたじけない」
隙間から差し出された食事は、いつになく豪華で酒まで付いていた。
「なるほど、明日か……」
フッと笑みを浮かべ、恐れることなく食事をとる竇建徳。
「いやぁ~流石だねお前さんは。毒が入っているとは思わなかったのかい?」
給仕をしてきた男が顔を伏せたまま、軽妙に話しかけてきた。その声音には、大陸の言葉とはどこか違う、島国の言語の響きがかすかに混じっている。
「既に死ぬことが分かっておる身に何を恐れる必要があるのだ?」
「ハハン、ちげーね―。いやはや恐れ入った。で、大将よ、まだ生きたいかね?」
軽妙さとは裏腹に、ここから逃がすという男。
「お主は何者だ?」
「俺かい……。そうさなぁ~、何といえばいいか……。東の島から流れてきた、しがない異国の風来坊、といったところか?」
「フフ、変わった奴だな……。では、その答えを聞かせてやろう、否だ!」
「なぜだい? 今回あんたは義理を守った。て―したもんだぜ。俺はその意気に感じたのさ」
「天運は儂に味方しなかった。それだけのことだ。これ以上抗っても天下が乱れるだけのこと……」
「天運ねぇ……俺はそんなモノ信じねーけどな」
「では、お前には友はいるか?」
「……」
少し呆気にとられながらも、遠くを見つめる男。その双眸には、大陸の広大な原野ではなく、荒海を越えた遥か東方の青みがかった景色が映っているようだった。
「そうさねぇ。いると言えばいる。ここから海を隔てた遠い島国の都にさ。あいつは今頃、くだらねぇ書物の山に埋もれて何をしているのやら」
「ならその友が殺されるとして、お前はどうする?」
「そら助けようとするだろうね」
「そうだな、そしてお前も死ぬのだ。分かるか?」
「……お前さん……。仲間を助けるため……かい?」
ため息交じりで竇建徳はさらに言葉を続けた。
「おらはなぁ~。もとわぁ百姓だで。それが、いっつのまにか一張羅を着させられ、将軍様さぁ。みんなおらのことをえれー人だと言って持ち上げてくれただ。けんどよ、やっぱおらは百姓だで……。こんなおらのためにみんなが死ぬ道理はねーだよ……」
何か吹っ切れた様子の竇建徳が、酒を一杯飲みし笑う。
「だがよ、それでもお前さんを慕ってる奴は後を追うぜ?」
「……、でば、おめぇさん、そいつらに言って聞かせてくんえーかね。死ぬなって」
男は素の竇建徳という男を目の当たりにした。
「……、あんたは漢だねぇ~。惚れちまったよ。よし、引き受けた」
「なら、これをもっていくといいさね」
竇建徳はおもむろに右手の人指し指を口に含み、自身の奥歯でその根元を思い切り噛みしめ、引きちぎった。
「お、お前さん、なにを……!」
「これを見せれば俺だと分かるだ……。おらの指の付け根には変わったホクロがあるでよ……。じゃぁ頼んだで!」
「……気骨の男だな。しかと預かった」
男は血に濡れた指を受け取り、自らの懐へとしまう。その身のこなしは、ただの下働きのものではない、鍛え抜かれた武芸者のそれだった。
「旅は道ずれ、世は情け。じゃぁ一仕事してくらぁ」
こうして自らを逃亡者というその異国人は、闇に紛れて竇建徳の前から去っていった。
そして、翌早朝。竇建徳は長安の市中において、刑場の露と消えた。
だが、この風来坊、橘逸人は知らない。この年彼のあの親友はこの世を去ることを……。
*****
「師匠、ご無事のお戻り、心より安堵いたしました……」
欧陽詢の新しい役宅の一室。長い離別を経てようやく帰還した彼を、出世して少し大人びた玄功が、緊張と安堵の入り混じった面持ちで出迎えていた。
かつて河北の地で共に暮らし、そして乱世の荒波によって引き裂かれそうになった日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。
「皆、ご苦労……、ふむ? お主、見慣れぬ顔じゃが、だれじゃ?」
欧陽詢は白髪混じりの眉をひそめ、目の前に立つ若い役人をしげしげと見つめた。
「はぁ? 何をおっしゃいますか、私です! 橘玄功です!」
「ほぉ~、玄功か。こりゃ驚いたな。別離れたときはあんなに子供じゃったのに、しばらく見ぬうちにすっかり大きくなりよったわい……。ほれ、もう少し近くに寄れ」
いつになく穏やかな、どこか誇らしげな響きを含んだ欧陽詢の言葉に、玄功は懐かしさを覚えて素直に歩み寄った。
――次の瞬間。
「このたわけ者がッ!」
乾いた音とともに、欧陽詢の拳が玄功の頭上へ一直線に落ちた。
「痛っ――! いったい何しやがんだこのクソ爺!」
「何をとはこちらの台詞じゃ! 聞けばお主、若さゆえの勢いに任せて図に乗り、すでに正九品なぞの位階に収まっているそうだな。少し出世したからとて、天狗になるでないわ!」
「痛てて……。こっちは実務で死にもの狂いだったってのに、再会早々これかよ!」
頭を押さえて飛び退く玄功と、それをさらに追いかけようとする老師・欧陽詢。相変わらず容赦のない師匠の姿に、ハラハラしながらも、玄功の胸のうちは言いようのない温かさで満たされていた。
そんな二人の慌ただしい小競り合いを、家宰の張忠衡が、まるで我が子を見守るような慈愛に満った目で微笑ましく眺めている。
「ささ、ご主人様。お疲れでしょうから、その辺りで勘弁してやってくだい。お体に障ります。玄功殿も、そう怒るものではありません」
張忠衡のなだめに、欧陽詢はふんと鼻を鳴らしながらも、ようやく拳を下ろした。
「フン、まぁよいわ。お主のおかげで、この老骨も唐朝の給事中として再び筆を執る許しを得た。……宮中でも、お主の背中を見張らせておく故、くれぐれも気を抜くでないぞ、玄功」
その言葉の端々に込められた、不器用ながら確かな師弟の絆。
荒れ狂う乱世の果てにたどり着いた長安の片隅で、二人の長い長い別離は、賑やかで愛おしい日常の音とともに終わりを告げたのだった。




