↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/41

深夜の邂逅

 西暦六二二年の冬――。河北で劉黒闥が掲げた反乱の旗は、瞬く間に旧・竇建徳の残党を巻き込み、新たな火種として唐朝の頭をもたげていた。この平定のため、皇太子・李建成(りけんせい)自らが陣頭に立つことが決定した夜。東宮の奥まった一室では、深々と夜の帳が下りる中、密やかな語らいが続いていた。


「殿下、この度の出陣に際して進言がございます」


「なんだ、魏徴(ぎちょう)。申してみよ」


「は。今回の反乱の源にあるのは、かつての夏王・竇建徳の処刑に対する河北の民の恐れと不満にほかなりません。ゆえに、首謀者を除く一般の者どもは一切不問に処すという寛大な姿勢を示すべきです。それにより、軍を動かさずとも民心は離れ、自然と瓦解するはずでございます」


「……。あい分かった。お前の進言通り、寛典をもって臨むとしよう」


「ありがたき幸せ。……さすがは殿下。寛容と大度をもって天下を包摂する、そのお心構えこそが真の主君の器にございます」


「フフ、そう持ち上げるな。だが、秦王が虎牢関で見せた圧倒的な武功に比べれば、私とてここらで確かな実績を重ねておかねばならんのも事実だ」


 魏徴はわずかに視線を伏せ、低く呟いた。


「……目を向けるべきは、天策上将府の動きにございますな」


「うむ……。この前も、斉王・元吉(げんきつ)が密かに私のところにやってきてな……」


 二人の影が揺らめく中、天下の趨勢を左右する深謀の夜は、なおも深夜へと続いていった。


*****


 東宮での密議が闇に溶けていった頃、都の別の一角では、冷え切った冬の夜気の中を灯火の揺れる作業場があった。


 山積みとなった兵站の帳簿や、地方からの物資輸送を記した竹簡を前に、玄功は疲れた目をこすりながら筆を走らせていた。劉黒闥の反乱が勃発したことで、河北へ向かう軍勢の兵糧や武具の補給計画を急ぎ再構築せねばならない。


「水路を通す舟艇は、黄河の浅瀬を避けるために積載量を二割減らすべきか。さもないと、冬枯れの時期は確実に座礁する」


 独りごちながら計算を直していると、背後から硬質な足音とともに、低い声が降ってきた。


「相変わらず不格好な線だな。必死に几帳面に書いているつもりが、肝心の気脈が通っていない。これではまるで、ただの木の枝を並べただけのようだ」


 振り返ると、そこに立っていたのは欧陽詢である。老いた巨匠は煤けた机の上に置かれた玄功の直筆の帳簿を覗き込み、鼻を鳴らした。


「師匠……夜分遅くになんですか」


「お前の部屋の明かりがいつまでも目に障るからな。見れば、書類の山と格闘しておるではないか。……だがな、玄功。いくら実務の記録とはいえ、相変わらずお前の筆跡には迷いと焦りがにじみ出ているぞ」


 欧陽詢の容赦ない言葉に、玄功は苦笑して筆を置いた。


「文字の美しさを競っているわけではありません。この物資の滞りがそのまま前線の兵の命取りになりますからね。特に今回は、皇太子殿下自らが陣頭に立たれる大規模な出陣だ。少しの狂いも許されないのです」


 二人が静かに言葉を交わしていたその時、作業場の引き戸が音もなく開いた。


 足音もなく現れたのは、質素な袍をまとった鋭い眼光の男――東宮の命を受けて動く魏徴その人であった。


 魏徴は部屋に入るやいなや、居合わせた欧陽詢の姿を認めてハッと身を引き締め、深々と頭を垂れた。


「これは欧陽給仕中殿。夜分遅くに失礼いたします」


「……おや、太子洗馬殿か。このような末端の官署まで、一体何の用だ」


 欧陽詢が淡々と問い返す。その二人のやり取りを、玄功はただ呆然と眺めていた。


(……え? あの老練な先生が敬意を払っているこの男、いったい何者だ?)


 魏徴はわずかに視線を上げると、欧陽詢の傍らに立つ若者――玄功へと目を向けた。そして、そのまま玄功の机の上に広げられた兵站計画の竹簡へと歩み寄り、許可もなく勝手に数枚を手に取って検めはじめた。


「そのまま続けるがいい。……これが、お前が作成した河北遠征の補給計画か」


 一言一句見逃すまいと丹念に目を通していく魏徴の低い声には、ただの使い走りではない、只者ではない重みが宿っていた。


(ななんだこいつ……人の書類を勝手に……)


 いぶかしがる玄功が内心で毒づいていると、数分間の沈黙のあと、魏徴はふっと息をつき、隠しきれない感嘆の色をその目に浮かべた。


「見事だな」


 魏徴は竹簡を元の場所へ丁寧に置くと、玄功を真っ直ぐに見据えた。


「私はこれまで多くの官僚や実務者を見てきたが、武功の華やかさばかりを追い、こうした泥臭い兵站の裏側にまで頭が回る者は少ない。だが、お前の計画には私情による甘さも、計算の怠慢もない。限られた物資と時間の中で、最大の効率を引き出すための冷徹なまでの合理性と、現場への配慮が同居している。……その手腕、実に高く評価しているぞ」


 皇太子の側近として知られる男から向けられた、異例とも言える賛辞。その言葉の奥にある並々ならぬ覚悟の重さを、玄功はまだよく分かっていなかった。


 そんな若者の戸惑いをよそに、欧陽詢がふんと小さく鼻を鳴らして、魏徴に告げた。


「魏徴殿、こいつは私の弟子でな。橘玄功と申す。実務の才ばかりはあるが、ご覧の通り作法も教養もまだまだ未熟な愚か者だ」


「左様で……橘玄功君か」


 欧陽詢の口から出た名前に、魏徴はわずかに目を細めてうなずいた。その名前を聞いた瞬間、玄功は頭の中で雷に打たれたような衝撃を受けた。


(――は? いま、なんて……魏徴、だと!? あの魏徴が目の前にいるのかよ……っ!)


 目の前の質素な袍を着た男の正体が、歴史の表舞台をこれから血眼で駆け抜ける怪物・魏徴本人であると気づき、玄功は慌てて持っていた筆を取り落としそうになりながら、ガタガタと震えつつ頭を下げた。


「し、失礼しました! 玄功と申します! 魏徴様とは露知らず……!」


 窓の外では、時代の大きな歯車が不気味な音を立てて回り始めている。だがこの小さな部屋の中では、厳格な美意識と、剛直な知性が、まったく噛み合わないまま奇妙な出会いを果たそうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。