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第二次浅水原の戦い

「こら間抜けども、なんだその動きは! もっと機敏に動けんのか!」


 薛仁杲(せつじんこう)は、目の前で浮き足立つ自軍の醜態にいら立ちを隠せずにいた。


「殿下、そう声を荒げずとも……」


「うるさい、宗羅睺(そうらこう)! お前が付いていながらこの有様とは何事だ!」


 八当たりするように肩を揺らして去っていく薛仁杲の背中に、宗羅睺は深くため息をついた。


「最近の殿は、殊のほかお気が荒い……」


 傍らに控えていた参謀の郝瑗(かくえん)が、苦々しい表情で若き主君の遠ざかる影を見つめる。


「焦っておられるのだ。このままでは、あの唐軍につけ込まれかねん」


「そうならぬよう支えるのが、儂らの役目であろう」


「ああ、分かっている。……だが、兵たちの動揺は隠せぬぞ。どうやら唐軍に、御上(薛挙)がお隠れになった報が漏れているようだ」


「何……! くそ、どこから漏れたのだ……」


 二人の宿老は城壁に佇み、重い沈黙の中で遠く長安の空を仰ぐのだった。


 一方、次の戦いに向けて牙を研いでいた長安の唐朝廷は、薛挙急死の報がもたらされるやいなや、にわかに活気づいた。


「殿下、これは天が与え給うた絶好の好機! この命に代えましても、次こそは西秦を根切りにしてみせまする!」


 罪を得て平民に落とされながらも、なお李世民の前に膝を突く劉文静と殷開山。その瞳には、かつてない執念の炎が宿っていた。


「ようやく私の体も動くようになった。直ちに陛下へ進言し、再び出陣の途につく。お前たちも前回の雪辱をここで晴らし、何としてでも旧職へと復帰せよ!」


「ははぁっ! ありがたき幸せ……! この命、すべて殿下に捧げる所存にございます……!」


 かくして六一八年十月、李淵は再び李世民を元帥に任じ、十万の精鋭を高墌城(こうしょじょう)へと向けて出撃させたのである。


****


 同じく十一月、高墌城の正面に陣を敷いた李世民は、全軍に厳命を下した。


「全軍、深く溝を掘り、塁を高くせよ。敵がどれほど挑発しようと、一兵たりとも陣を出てはならん。打って出た者は、理由を問わず即刻斬首に処す!」


 それは、夏の敗戦時に李世民が病床で命じた「堅壁清野」の徹底であった。

 劉文静と殷開山は、固い表情でその命令を拝聴し、陣地の防備を固める作業に黙々と従事した。二人の脳裏には、かつて己の功名心ゆえに散っていった虞靖凱ら数万の将兵の顔が浮かんでいた。もう二度と、過ちは許されない。


 対する西秦軍の総大将・宗羅睺は、連日のように唐軍の陣前へと押し寄せ、大声で罵り、挑発を繰り返した。


「唐の腰抜けどもめ! 李世民は病から覚めても、まだ腰が抜けたままか!」


「出てこい! 浅水原で死んだ味方の骸(むくろ)の上で、もう一度踏み潰してやる!」


 罵詈雑言が唐軍の陣内に響き渡り、若き将校たちは悔しさに拳を握りしめ、血を流さんばかりに歯噛みした。しかし、李世民は微動だにしなかった。


 自ら陣内を巡察し、兵たちに語りかける。


「耐えよ。薛仁杲の軍は糧食が乏しく、遠征の限界を迎えている。宗羅睺の焦りは、奴らの終焉が近い証拠だ。今、耐えることこそが、最大の反撃なのだ」


 六十余日――実に二ヶ月以上に及ぶ膠着状態が続いた。

 李世民の読んだ通り、西秦軍の兵糧は底をつき始めた。さらに、強固な陣地を破れぬ焦りと、薛仁杲の残虐な性格への反発から、西秦の将軍や士卒の間に決定的な亀裂が生じ始める。逃亡者や唐軍への投降者が連日相次ぎ、かつて無敵を誇った隴上の精鋭は、内部から自崩れしていった。


「元帥、今こそ好機にございます!」


 時が満ちたことを察した劉文静が、決然と進言した。


 十一月三日、李世民の瞳に冷徹な光が宿る。


「よし。我が軍の牙を解き放つ」


 李世民はまず、手勢の部隊を割いて浅水原の北に送り、敵の気を引かせた。宗羅睺がこれに食いつき、全軍をもって襲いかかったその瞬間――李世民自らが率いる精鋭騎兵の本体が、敵の側面へと怒涛のごとく突き刺さった。


「我は唐の秦王・李世民なり! 浅水原の無念、今こそ晴らして見せよう!」


 かつて背後からの奇襲で叩き潰された唐軍が、今度は全く同じ策をもって西秦軍の腹部を喰い破ったのである。

 完璧な挟撃と、二ヶ月間溜め込まれた唐軍の執念の猛攻に、宗羅睺の軍勢は瞬く間に大混乱に陥った。


「馬鹿な……あの唐軍が、これほどの力を残していたとは……!」


 陣頭で太刀を振るっていた宗羅睺も、なだれを打って崩壊する自軍の逃走を止める術はなかった。かつて虞靖凱の命を奪った猛将の面影はなく、数万の骸を残して折墌城(せつしゃじょう)へとなだれ込むように敗走していった。


「追撃だ! 敵に息を吐かせるな!」


 李世民は立ち止まることを許さなかった。


「元帥! 敵は城に籠もりました。我が軍は騎兵のみ、後方の歩兵の到着を待って囲むべきです!」


 臣下が制止するのも聞かず、李世民は馬上に鞭を当てた。


「敵は今、恐怖で正気を失っている。勢いに乗じて城を包囲せねば、薛仁杲が軍を立て直してしまう。今立ち止まることこそが途上の敗北だ!」


 李世民の駆る駒は、逃げる西秦軍の背中を追って一直線に折墌城へと肉薄した。


 唐の騎兵が怒号とともに城を取り囲んだ時、城内にいた薛仁杲と将兵たちは青ざめた。勝者であったはずの自分たちが、わずか一日の戦闘ですべてを失い、完全に孤立無援となったのだ。


 翌日、後方から追いついた唐軍の歩兵大群が続々と到着し、城は三重の鉄の囲みで埋め尽くされた。


 城上からその絶望的な光景を見下ろした薛仁杲は、ガタガタと膝を震わせた。参謀の郝瑗は血吐く思いで主君を支えようとしたが、将軍たちが相次いで城門を開けて投降していくのを止めることはできなかった。


「……もはや、これまでか……」


 十一月八日。

 西秦の「武皇帝」薛仁杲は、自ら縛について城門を開け、李世民の前に膝を屈した。


 精鋭一万、降兵一万を超える西秦の全軍勢が投降し、隴西を震え上がらせた割拠勢力・西秦は、ここに完全に滅亡したのである。


 夕闇が迫る浅水原の荒野。

 赤く染まる地平線を前に、李世民はひとり馬を止め、風に吹かれていた。

 勝利の歓声が遠く聞こえる中、その背中にはどこか深い哀愁が漂っている。


 背後に歩み寄ってきた劉文静と殷開山が、静かに頭を下げた。


「殿下……見事なるご勝利。これにて西秦は平定され、長安の憂いは潰えました」


「……勝利か」


 李世民は低く呟き、泥と血に塗れた浅水原の土を静かに見つめた。


「この地に眠る者たちの声が聞こえるようだ。夏の日の過ちと、私の不徳ゆえにここで果てた将兵たちの無念が……」


 虞靖凱をはじめ、あの日この惨劇の地で散っていった者たちの命。その代償として掴み取ったこの勝利の重みを、若き将軍は一身に背負っていた。


「劉文静、殷開山」


「はっ」


「お前たちの罪は、この勝利をもって完全に雪がれた。朝廷に戻り、再び私を支えよ。だが……この地に流れた血の味を、死ぬまで忘れるな」


「……御意にございます……!」


 二人の臣下は深く平伏し、涙を土に染み込ませた。


 冷たい秋風が浅水原を吹き抜けていく。

 一度の大敗という地獄を味わい、そこから冷徹な戦略家へと覚醒を遂げた李世民。

 唐の覇業を決定づけた「浅水原の戦い」は、多くの犠牲と一人の天才の誕生を刻み込み、静かに幕を閉じたのであった。

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