暗躍
「橘校書郎、何をぼうっとしているのだ。ほら、こちらの資料も早く!」
「す、すみません……」
「最近の君は、どうも仕事に身が入っていないようだね。――いや、事情は承知している。親しい友を亡くしたのだろう? しばらく休暇を取ってはどうかね」
上司である秘書郎は、咎める風でもなく、いたわるように玄功へ言葉をかけた。
「い、いえ。公務は公務です。しっかり努めますので……」
「そうか。無理はせぬようにな。では、この戦死者の名簿整理を頼む」
李世民の帰還から数日後。長安の朝廷は、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎであった。建国早々の大惨敗に怯える宮廷の中で、行政の末端にいる玄功の執務もまた、過酷を極めていた。
秦王府も朝廷も、いまや死者を悼むことより、「いかにしてこの敗戦を政治的に取り繕うか」「傷ついた李世民の名声をどう塗り替えるか」という権力の計算ばかりに躍起になっている。
名声という虚飾のために、人間の命を単なるコストとして消費し尽くす――その英雄たちの貪欲な思想が、現代の価値観を持つ玄功には、どうしても冷酷で歪んだものにしか思えなかった。
だからこそ、彼の引く墨の線は、以前の模倣めいた美しさとは異なり、どこか刺すような冷徹さを帯び始めていた。
****
ところ変わり、秦王府の奥深く。
李世民が這う這うの体で長安に帰還してから幾日かが過ぎ、時は七月の末を迎えていた。
「元帥、薬師が参りました」
「う、うむ……通せ……」
まだ完全に回復しきらぬ身体をかろうじて起き上がらせ、李世民は寝台の上で息を整えた。入ってきた薬師がおもむろに傍らに侍る。が、その男が口を開いた瞬間、室内の空気が変わった。
「おや大将。今回は随分としくじったようだなぁ」
あまりに気の抜けた、しかし見覚えのある声に、李世民は驚愕して身構えた。
「くっ、何者……! お前、どうやって薬師に紛れ込んでここまで入ってきた!」
「オイオイ、そう慌てんなって。俺だよ、俺」
男が顔を覆っていた布をわずかにずらす。
「……お主! なぜここにいる!」
「まあまあ、ここに来る方法なんてどうでもいいじゃねぇか。それより大将、このまま寝て過ごすつもりですかい?」
「馬鹿なことを申すな! 身体が癒え次第、直ちに戦場へ戻る!」
「そのボロボロの体で?」
「気合で何とかするわ!」
李世民が語気を強めると、男はケラケラと低く笑った。
「ハハハ! さすがは元帥閣下であらせられる。その気概だけは天下一品だ」
「……無礼者め。余を愚弄しに来たか」
「いやスマン、悪気はねえよ。そんな大将に、とっておきの耳よりな話を持ってきたのさ」
「耳よりな話……? 何だそれは」
李世民は鋭い眼光で男を睨み据えた。
「ほう、俺の話を聴く気になりましたか」
「お前がかつて予言した通り、欧陽詢の弟子(玄功)が実際に現れたのだ。お前の言葉を単なる妄言と片付けるわけにはいかんからな」
「なるほど、なら話は早い……」
男は声を一段と低くし、李世民の耳元で囁いた。
「もし、大将の怨敵である薛挙が、近々『急病』によってあっけなく死ぬとしたら、どうします?」
「急病だと? あ奴はどこか身体を病んでいるのか?」
「いや、そんな話は聞いちゃいねえよ」
「では、なぜ死ぬと言い切れる!」
「人生ってもんは、何が起きるか分からないものだろ? なぁ、大将」
「……」
李世民は沈黙し、目の前の男の真意を探ろうと凝視した。その言葉の意味する不穏な可能性――暗殺か、あるいは歴史の決定事項か。
「……できるのか」
「任せておけって。ここはあんたに『貸し』にしとくぜ。後でたっぷり利子をつけて返してもらうがね」
「なぜ、そこまで余に肩入れする。お前の狙いは何だ」
「そりゃあ……俺の故郷の言葉にな、『袖振り合うも多生の縁』ってのがあってな。前回あんたに手を貸しちまったから、今回もその続きって訳さ」
「……ふん。これを持っていけ」
李世民は枕元から、ずしりと銀の詰まった巾着を男に向けて放り投げた。男はそれを空中で器用に受け取る。
「ほう、重いこった。じゃあ、お返しにこいつを渡しておこう」
男は懐から、陶器の小瓶を取り出し、寝台の脇に置いた。
「これは俺の知り合いが調合した特効薬さ。瘧の熱なんぞ、あっという間に下げるらしいぜ」
「……毒ではないであろうな」
「信じるか信じないかは、あんた次第さ。さて、診察はこれで終わりだ。失礼するぜ……」
男は再び薬師の顔に戻り、何食わぬ顔で恭しく一礼すると、音もなく部屋から退出していった。残された李世民は、小瓶を見つめながら、深く息を吐き出すのだった。
*****
「旻、お前が作った薬をちゃんと渡してきたぜ」
「そうですか。無事渡せましたか。……それで、秦王はそれを口にしましたか?」
旻は男を一瞥もせぬまま、机の上に広げた巻子へひたすら視線を落としていた。
「さあてね。信じるか信じないかはあっち次第だ。そこから先は俺の責任じゃねえよ」
男が肩をすくめると、旻はそこでようやく顔を上げ、静かに男と相対した。
「いいですか。薬と毒は表裏一体、基本は同じものなのです。要は、処方を適切に行うか否か……。使い方次第で、人は生かすことも殺すこともできるのですよ」
その穏やかな声音とは裏腹に、旻の双眸に宿る冷徹な光が男を正面から射す。
「おっかねえなぁ……。本当にお前さんは仏門の坊主なのかね? 玄理が聞いたら、生真面目にああだこうだと怒り出すぜ」
「ふん、それがどうしたのです。あの男の堅物ぶりには付き合いきれませんよ。――そんなことより、これより例の場所へ向かうのでしょう?」
「あぁ、そのつもりだ」
「では、しっかりと勤めを果たしてきなさい。ここで唐に倒れられては、私の計画もすべて水の泡になりますからね……」
(まったく、とんでもねえ坊主だこと……)
男は内心で苦笑を漏らし、怪訝な顔を崩さぬまま、足早にその場を去っていった。
天才と謳われた秦王・李世民が長安の病床で謎の薬を手にし、歴史の歯車が再び不穏な音を立てて回り始めた、まさにその頃。
西暦六一八年、八月十日。
高墌城に居座り、長安を一気に突き崩さんと牙を研いでいた西秦軍の総大将・薛挙は、突如として原因不明の急病を発し、そのまま呆気なく逝去した。
あまりに唐突な巨星の墜落は、勝利に沸いていた西秦軍を激しく揺るがすことになる。




