友の死
李世民は、粉塵が舞う高墌城を背に、薄れゆく意識をかろうじて繋ぎ止めていた。病に侵された身体は馬を駆ることも叶わず、側近たちに抱え上げられるようにして、辛うじて退却の列に混ざっている。
「元帥……、今は、長安へ戻ることに全力を注ぎくだされ……」
元帥府司馬・殷開山は、泥と返り血に塗れた顔を覗かせながら、声を振り絞った。その声には、精強を誇った唐軍を己の慢心で壊滅させてしまったという、深い悔恨と焦燥が滲んでいる。
「……うむ」
途切れがちな息の中で李世民がわずかに応じ、その視線を向けた先には、元帥府長史・劉文静の生気の無い顔があった。長安での権力闘争に目が眩み、この大敗を引き起こした張本人は、今やただ怯えたように馬の首にしがみついている。
かくして西暦六一八年、七月十日。
李世民らは虞靖凱をはじめとする多大なる将兵の犠牲を出し、這う這うの体で高墌城から撤兵した。唐軍、建国以来未未曾有の大惨敗であった。
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「父上! 見事なる勝利、おめでとうございます!」
「うむ。噂に聞く『秦王・李世民』とやらも、大したことはなかったな。やはり所詮は二十歳そこそこの若造よ。それ見よ、一目散に逃げ去っていくわ」
高墌城の堅牢な城壁の上。西秦軍の総大将・薛挙は、敗走する唐軍の土煙を満足げに見下ろしていた。その傍らで、息子である薛仁杲がギラギラとした目を輝かせる。
「父上、このまま追撃のご許可を! 息の根を止めてご覧に入れます!」
「ならん」
薛挙は低く重い声で息子を諭した。
「兵法に曰く、『帰師には遏むること勿れ』だ。死に物狂いで故郷へ奔る軍を深追いすれば、手痛い反撃を喰らう。今はまず、この城を足場として地盤を固めるときぞ」
「ですが、ここで叩かねば……」
「お前もまだまだ視野が狭いな。よいか、これよりひと月で兵馬を肥やし、一気に唐の本拠・長安を衝く。首根っこを押さえれば、あ奴らなどたちまち烏合の衆となり、我らがこの華西を牛耳ることとなるのだ」
「……分かり申した。では、そのように」
不承不承ながらも納得した薛仁杲は、足早に城壁から姿を消した。その荒々しい後ろ姿を見送りながら、背後に控えていた猛将・宗羅睺が苦笑を漏らす。
「若は相変わらず血気が盛んですな。まだまだ戦の経験が必要のようだ」
「宗羅睺よ。儂に万一のことがあれば、そなたらがあ奴を支えてやってくれ」
不意に漏らした薛挙の言葉に、宗羅睺は怪訝そうに眉をひそめた。
「大将、なんだその不吉な言い草は。まるで自分が近々死ぬとでも言いたげじゃねえか」
「ハハ、馬鹿を申せ。天下の覇権を争うのはこれからよ。だが、いずれはあ奴が家督を継ぎ、この軍を率いることになる。それまでの間に、何とか一門を背負って立つ武将になってもらわねばならんからな……」
「心配召されるな。ひと月後、唐軍の連中を長安の街ごと根絶やしにした頃には、若も少しは大人になってるでしょうぜ!」
「……そうだな」
薛挙はもう一度、唐軍が去った東の空を見つめた。その胸に去来する予感を知る者は、まだ誰もいない。
かくして、高墌城を奪い取った西秦軍は、勝利に浮かれることなく、次なる長安攻略へ向けて牙を研ぎ始めたのだった。
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「愚か者ども! それでは貴様らは秦王の命を無視し、勝手に戦端を開いたと申すか!」
長安・大興殿。高祖李淵の怒号が、宮殿の空気を一瞬で凍りつかせた。
「……申し訳ございませぬ。秦王殿下の指示を仰ぎつつ、機を計っての出陣ではございましたが、かくなる事態を招きましたる責は、ひとえに我ら二人にございます……」
劉文静と殷開山は、冷たい床に額を擦りつけたまま、決して顔を上げようとはしなかった。「秦王の指示を仰ぎながら」と言い添えることで、暗に自分たちだけの独断ではないと保身の網を張る狡猾さが、その震える背中に滲んでいる。
「で、世民(李世民)はどこにおる!」
「秦王殿下は、長安に到着されるや否や激しく倒れられ、現在は秦王府にて意識も朦朧としたまま、ご療養されております……」
「おい、誰かある! すぐに秦王府へ高名な医官を遣わせ。どのような妙薬を使ってでも、決して死なせるなと申し伝えよ!」
李淵が玉座から身を乗り出して命じると、劉文静は這いつくばったまま、かすれた声を絞り出した。
「……秦王へのご配慮、痛み入ります」
「黙れ! お主らの処遇だ」
李淵の冷徹な眼光が、二人の脳天を突き刺す。
「秦王の厳命に背き、精強なる我が将兵を無駄に死なせた罪は万死に値する。本来なら即刻斬首に処すところだが、創業の功に免じ、命だけは助けてやる。よって即日、官位および官職を剥奪し、庶民に落とす。二度と私の前に顔を出すな。下がれ!」
「はっ、ははぁ……っ!」
こうして西暦六一八年、七月十五日。
大唐帝国の建国早々に起きた「第一次浅水原の戦い」は、唐軍の壊滅という最悪の結末を以て、一応の決着を見た。しかし、それは長安を揺るがす大動乱の、ほんの序章に過ぎなかった。
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朝廷が敗戦の衝撃と西秦軍の追撃への恐怖で大揺れに揺れている最中にあっても、長安の片隅にある虞家の日々は、奇妙なほど静かだった。
「玄功、お茶が入ったわよ」
赫麗が、いつもと変わらぬ様子で湯飲みを運んでくる。
玄功は、靖凱の屋敷の居間に腰掛け、彼の帰りを待っていた。出陣のあの日から、毎日こうして足を運んでは、外を見ていたのだ。
「ありがとう、赫麗さん。……それにしても、随分と遅いな」
玄功は外の夕闇を見つめた。
唐軍が長安へ帰還したという噂は、すでに街のあちこちで囁かれていた。敗残の兵たちが泥にまみれて城門をくぐる姿を目撃した者もいる。だが、靖凱は一向に姿を見せなかった。
「軍の片付けや、秦王府での事後処理が長引いているのよ。あの人は生真面目だから」
赫麗はそう言って不敵に微笑むと、庭へ出て愛用の木刀を手に取り、静かに身体を動かし始めた。夜気の中に、低く鋭い風切り音が規則正しく響く。それは焦燥を打ち消し、己を律するための彼女なりの儀式のようでもあった。
その張り詰めた音を聴きながら、玄功の胸の奥で、言い知れぬ不穏な胸騒ぎがじわじわと広がっていく。
(いくらなんでも、遅すぎる。無事帰還したのなら、一言だけでも伝令を送る男だ……)
そう思った瞬間、屋敷の小門が、激しく叩かれる音がした。
――バン! バン! バン!
「虞殿! 虞靖凱殿の御宅か!」
庭の風切り音がピタリと止まった。玄功は弾かれたように立ち上がり、瞬時に気配を鋭くした赫麗を背にかばうようにして、玄関の扉を開けた。
そこに立っていたのは、甲冑のあちこちが煤と乾いた血で汚れた、一人の若い唐兵だった。息を荒く乱し、その目は恐怖と疲弊で血走っている。靖凱の部下として、共に出陣したはずの兵だった。
「……どうした。靖凱は、靖凱はどこにいる」
玄功が静かに、しかし詰め寄るように問いかける。
兵士は玄功の顔を見つめ、それから奥にいる赫麗の姿を認めると、その場にどさりと両膝を突き、泥だらけの拳で地面を叩いた。
「申し訳……ございませぬ……っ! 浅水原にて、西秦の猛将・宗羅睺の奇襲を受け……陣形は崩壊。虞将軍は、我ら後方の兵を逃がすため、ただ一騎で敵陣へ突撃され……っ」
言葉が、梅雨時の湿った空気に消えていく。
「嘘……」
背後で、赫麗の小さな呟きが聞こえた。
「お身体は……まだ、戦場に……。敵の軍勢に踏みにじられ、回収することも叶いませんでした……!」
兵士の慟哭が、静かだった屋敷の庭に響き渡る。
玄功の視界から、すっと色が消えていった。耳の奥で、キィンという高い金属音が鳴り響き、自分の呼吸の音さえ聞こえなくなる。
――嘘だ。
つい日前、この場所で、確かにあいつの手を握った。生きて戻れと言った。あいつは「お前が歴史を記すなら、俺はその歴史を汚さぬよう武功を立てる」と、そう言って笑っていたではないか。
歴史の文献に書かれる「数万の討死」という、たった一行の無機質な数字。その冷徹な文字の裏側にある本当の重みと、引き裂かれるような血の痛みを、玄功は今、最悪の形で突きつけられていた。
ふと視線を落とせば、机の上には、靖凱が「戻ったら、また構造を教えてくれ」と言い残していった、漢代の隷書の拙い臨書の紙が、そのまま置かれている。武骨な彼らしく、無器用ながらも力強く引かれた墨の線。
書いた本人の肉体は、今や遠い浅水原の赤土にまみれ、跡形もなく消え去ろうとしているのに。主人のいなくなった文字だけが、ただ静かに、黒々とそこに生き続けている。
人間一人の命よりも、その人間が気まぐれに引いた墨の痕跡の方が、遥かに長くこの世に残るという残酷な理不尽。
次の瞬間、玄功の喉の奥から、言葉にならない獣のような叫びがせり上がった。
人目をはばかる余裕など、とうになかった。
あふれ出た涙が、机の上の「靖凱の文字」を歪ませ、滲ませていく。玄功はただ、激しく震える両手でボロボロと畳を叩きながら、親友の名を呼び、声を枯らして慟哭するしかなかった。




