第一次浅水原の戦い(二)
劉文静のその一言が、すべての歯車を狂わせた。
「お待ちください、長史殿! 司馬殿!」
虞靖凱はたまらず二人の前に進み出、声を震わせた。
「殿下の『堅壁清野』の命は絶対です。薛挙は飢えた狼のごとき男、こちらが隙を見せれば必ずやその喉元を喰いちぎりに来ます。出兵など、あまりに無謀です!」
しかし、功名心に目を曇らせた宿老二人に、若き将の必死の諫言は届かなかった。
「黙れ、虞殿。我らは退くのではない、唐軍の威風を示しに行くのだ。これ以上、病床の殿下に心労をかけるな」
殷開山は冷淡に言い放つと、劉文静とともに足早に去っていった。取り残された靖凱は、高墌城を包む不穏な風の中に、濃厚な死の匂いを感じていた。
数日後、唐軍は李世民の厳命を破り、高墌城の堅固な防壁を出て浅水原の南へと打って出た。
広大な平原に並ぶ数万の兵馬。劉文静らは自軍の強大さを誇示することに終始し、陣地に防塁や逆茂木といった最低限の防備すら設けなかった。これこそが「耀兵而不設防(兵を誇示して防備を設けない)」という、致命的な油断であった。
対峙する西秦軍の陣営から、不気味なほど静まり返った空気が漂ってくる。
(何かがおかしい……)
前線に配属された虞靖凱は、馬上で周囲を油断なく見回していた。正面の敵陣は確かに健在だが、軍旗の数が不自然に乱れている。
その直後だった。
ゴオオオオ……と、地平線の彼方から不穏な地鳴りが響いてきた。それは正面からではなく、唐軍のまったくの「背後」――無防備な後方からであった。
「……騎兵だ! 敵の奇襲!!」
誰かの悲鳴が上がった時には、すでに遅かった。
薛挙が密かに迂回させていた、隴上の剽悍なる精鋭騎兵数千が、猛烈な砂塵を巻き上げて唐軍の背後に突き刺さった。
「うわあああ!」
「防げ! 向きを変えろ!」
背後からの予期せぬ一撃に、防備のない唐軍の陣形は一瞬で紙細工のように崩壊した。パニックに陥った兵たちが将を突き飛ばして逃げ惑い、前線と後方が入り乱れる大混乱となる。そこへ、正面にいた宗羅睺の軍勢も一斉に牙を剥いて突撃してきた。完璧な挟撃であった。
「怯むな! 踏み止まれ! 陣を立て直せ!」
虞靖凱は剣を抜き、狂乱する味方を必死に怒鳴り散らした。逃げる背中を容赦なく叩き切る西秦軍の凄まじい武力。周囲は瞬く間に血の海と化し、唐兵の骸が積み上がっていく。
「ふん、まだ骨のある奴が残っていたか」
阿鼻叫喚の戦場に、地を編むような野太い声が響いた。
血飛沫に濡れた漆黒の甲冑を纏い、巨大な大刀を駆る巨漢――西秦の猛将、宗羅睺その人であった。その周囲には、靖凱の部下たちの無惨な死体が転がっている。
「唐の生ぬるい若造が。我が主の進路を塞ぐ者は、一粒残らず叩き潰す!」
「……おのれ、逆賊が!」
靖凱は退路を断たれたことを悟った。ここで自分が時を稼がねば、本陣の劉文静や、病床の秦王殿下まで敵の刃が届いてしまう。
「殿下……申し訳ございませぬ……!」
靖凱は覚悟を決め、愛馬の腹を蹴って宗羅睺へと肉薄した。
キィィィン! と甲高い金属音が響き、靖凱の渾身の一撃は、宗羅睺の大刀によって容易く弾き飛ばされた。凄まじい衝撃が両腕を駆け抜け、骨がきしむ。
「威勢がいいのは口だけか!」
宗羅睺の横薙ぎの一撃が、靖凱の馬の首を深く切り裂いた。激しくいななき、崩れ落ちる軍馬。靖凱は無様に地面へと投げ出され、泥と血の中に叩きつけられた。
肺の空気を絞り出され、視界がかすむ。必死に立ち上がろうとする靖凱の影を、巨大な馬体と刃が覆った。
「さらばだ、唐の小倅」
冷徹な宣告とともに、宗羅睺の大刀が真っ直ぐに振り下ろされた。
肉体を貫く衝撃は、思ったよりも熱く、そして鈍かった。
(ああ……ここまで、か……)
痛みを自覚するよりも早く、全身の体温が急速に奪われていくのが分かった。引き抜かれる刃の音、己の胸から溢れ出る生温かい血の感触。それすらも、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
轟々たる怒号も、狂乱する馬蹄の響きも、耳の奥で急激に遠ざかっていく。
視界が白く濁る中、なぜか思い出すのは、血生臭い戦場とは対極にある、長安のあの小さくも温かい家の日々だった。
機織りをする赫麗の、少し不器用だが優しい手つき。
自分の背丈を追い越そうと、必死に竹刀を振るう少年たちの声。
そして――つい先日、秦王府の門前で「生きて戻ってください」と、真っ直ぐな目で自分を見送ってくれた、あの生真面目な友・玄功の顔。
――あいつは今頃、また墨を磨りながら、歴史の記録でも読んでいるのだろうか。
国を興すという大業のために、この身を捧げる覚悟はとうにあった。主君の覇道のための礎になるなら、本望だとさえ思っていた。
だが、この死は何だ。
主君の英明な策は病に阻まれ、上に立つ者の浅ましい功名心の身代わりとして、自分をはじめ数万の兵が、ただの砂くれのように踏み潰されていく。誰も望まぬ、誰も救われぬ、あまりに虚しい、犬死に。
人間が命を賭して従う「権力」とは、これほどまでに脆く、理不尽で、空虚なものだったのか。
(赫麗……すまない……。玄功、お前は、どうか……)
最後まで紡げなかった言葉は、若き将の唇から静かな吐息となって漏れ、浅水原の乾いた土へと吸い込まれていった。
瞳から光が完全に失われ、四肢から力が抜ける。
将兵の半分以上を失う、唐軍未曾有の大敗――その凄惨な嵐のなかで、一人の実直な忠義の命が、どす黒い過ちの澱に呑み込まれるようにして、静かにその幕を閉じた。




