第一次浅水原の戦い(一)
時は西暦六一八年、七月の初旬。
長安を出立した行軍元帥・李世民は、その副官として元帥府 長史の劉文静、元帥府 司馬の殷開山を従え、高墌城に布陣した。
対する西秦軍は、総大将・薛挙とその子・薛仁杲、そして勇猛果敢な猛将・宗羅睺が、高墌城の正面に立ち塞がり、両軍は一触即発の対峙を続けていた。
そんな緊張感漂う戦場で、さらなる不測の事態が唐軍を襲った。
「長史殿、一大事にございます!」
「喧しい。何事だ」
劉文静は山積みの軍議書類から目を離すこともなく、低く応じた。
「元帥が……秦王殿下が、急に発熱されました!」
「……おぉ、虞殿か」
これまで一瞥もしなかった劉文静は、ようやく顔を上げた。報告を携えてきた者が、あの若輩の小官(玄功)と繋がりのある武官・虞靖凱であることに気が付いたのだ。だが、その報告の内容に、劉文静の表情には明らかな動揺が走った。
「して、殿下の容体は?」
「かなりの高熱です。すぐに医官に見せておりますが、詳しい状況はまだ……」
「分かった。私もすぐに参ろう」
虞靖凱に導かれ、劉文静が急ぎ足で宿舎の奥へと向かうと、そこにはすでに元帥府司馬の殷開山が、硬い表情で佇んでいた。
部屋の奥、帳の向こうから、荒く苦しげな呼吸音が漏れ聞こえてくる。
「……長史殿」
殷開山が声を潜めて歩み寄ってきた。その屈強な体躯に似合わず、声には焦燥が滲んでいる。
「医官の見立てでは、瘧のようだ。先ほどから熱が上がる一方でな。意識はおありのようだが、これではとても軍の指揮を執れる状態ではない」
劉文静は苦り切った顔で頷き、帳を掲げて中へ入った。
寝台に横たわる若き総大将――李世民の顔は赤く火照り、額には大粒の汗が浮かんでいる。わずか二十歳前後の青年でありながら、数々の戦場を潜り抜けてきた鋭い眼光も、今は熱に浮かされて虚ろだった。
「……長史か。それに司馬も……来たか」
かすれた声で、李世民が無理に身を起こそうとする。劉文静は慌ててそれを手で制した。
「殿下、無理をなさいますな。ここは我らにお任せいただき、まずは静養を」
「いや、聞け……」
李世民は劉文静の手を強く握り返した。若者のものとは思えないほど強く、そして恐ろしいほどに熱い手だった。その執念に満ちた目が、劉文静と殷開山をじっと見据える。
「薛挙の軍は……深く我が領内に侵入している。将兵は一様に決戦を望んでいるだろうが、敵は遠征軍だ。兵糧が長く続くはずがない。それに、奴らの率いる隴上の兵は剽悍の極み。正面からぶつかれば、我が軍の被害は計り知れん」
李世民は激しく咳き込みながらも、一言一言を呪詛のように絞り出すように命じた。
「私が動けぬ間、決して戦ってはならん。城壁を高くし、防備を固めよ。敵の糧食が尽き、しびれを切らして退却を始めた時……その時こそが、奴らを一撃で葬り去る好機だ。それまでは、何があっても、絶対に、打って出るな……!」
「……御意。深く肝に銘じます」
劉文静は恭しく頭を下げた。
やがて医官に促され、劉文静、殷開山、そして虞靖凱の三人は、重苦しい沈黙の中で主将の部屋を後にした。
しかし、一歩外へ出た瞬間、殷開山の目が鋭い光を帯びる。彼は劉文静を振り返ると、先ほどの厳命を覆すような言葉を、遮二無二に投げかけた。
「長史殿。秦王殿下は、ご自身の病ゆえに、我らが敵に勝てないのではないかと過剰に憂慮されている。だが、考えてもみられよ。我が唐軍の威容を城内に閉じ込めておいては、周囲の群雄に『唐は西秦を恐れている』と侮りを与えるだけだ」
殷開山は拳を握りしめ、劉文静の顔を覗き込む。
「今こそ好機。我らが全軍を出して浅水原に布陣し、圧倒的な兵力を誇示して敵を威圧するのです。殿下の手を煩わせることなく薛挙を破れば、それこそが真の忠義というものではありませんか!」
その言葉は、劉文静の胸の奥にある、最も触れられたくない部分を激しく突き動かした。
長安の朝廷で最高権力者として君臨するライバル・裴寂の、あの傲慢な顔が脳裏をよぎる。政治の世界で遅れを取っている自分にとって、この戦場での誰も文句のつけようのない「軍功」こそが、形勢を逆転させる唯一の鍵なのだ。
若き主君の冷徹な正論よりも、どす黒い功名心が、劉文静の瞳を支配していく。
「……司馬の言うことにも、一理あるな」
劉文静の口から漏れたその一言に、傍らに控えていた虞靖凱は、背筋が凍るような戦慄を覚えるのだった。




