西秦の襲来
そして、時代は目まぐるしいほどに動き始めた。その日、長安に早馬が到着した――。
「申し上げます! 薛挙が軍を動かしました。その数、およそ十万!」
急使の知らせに、李淵は人目をはばからずギリリと歯ぎしりをした。
「やはり動き出したか……。さて、どうする裴寂?」
「陛下、秦王・李世民様に軍を預け、北伐させるのがよろしいかと……」
「ふむ……やはりそう思うか。文静はどうじゃ?」
「私も同じ意見にございます。直ちに勅を出し、秦王府に届けるべきかと。――そうそう、使者には例の若輩の小官を差し向けましょう」
ニヤリとほくそ笑む劉文静に、李淵は、
「フッ、また何か思いついたのか? 次から次へと、よくその頭は回るものだな」
そう言って嘆息した。だが、その顔にはわずかに信頼の笑みを浮かべていたのだった。
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「勅を伝える」
「ハッ!」
玄功は真新しい官服に身を包み、秦王府で李淵の勅を読み始めた。その眼前には、偉丈夫たる李世民が控えていた。
「……よって直ちに軍を率いてこれを討伐せよ。以上」
玄功は黄色の絹布に書かれた勅書を李世民に手渡した。
「承りました!」
その偉丈夫は顔を上げ、勅書を受け取ると、
「ふむ……お主が勅書を持ってこようとはな! ハッハッハ!」
「おっしゃる通りです……。書生上がりの身には余る大役でございました。もうヒヤヒヤして、足が震えております……」
ひきつる顔をぴしゃりと叩いて苦笑する玄功。
「まぁ、そう言うな。お前ももっと功を立てれば重用されるだろうさ。いっそ、その前に秦王府に来ても構わんが、どうする?」
「おっ、恐れ多い……。私はまだまだ若輩、とてもお役には立てそうにありません」
「そうか? まぁ、そういうことにしておくか。考えておいてくれ、いいな!」
李世民は威勢よく玄功の肩をたたき、秦王府から出て行った。
(参ったな……。それにしても肩が痛む。もう少し手加減というものを知っていただきたいものだ……)
そんな不遜なことを考えていると、背後から声をかけられた。
「玄功殿」
「これは靖凱殿。あなたもご出陣ですね」
「あぁ。その間、家のことは頼んだよ」
「お任せください。阿成兄さん、赫麗さんにも伝えておきます」
「あぁ、そうしてくれ。では、これで」
「ご武運を……」
かくして、六一八年六月。李世民率いる唐軍十万は、薛挙率いる西秦軍に向け出陣したのだった。
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ちょうどその頃、東の方でも大きな動きがあった。
江都を出た宇文化及は軍を率いて、一路北へと進んでいた。その大軍の中に、まるで似つかわしくない老官吏が二人、それぞれ馬に揺られていた。
「詢、ここまでは無事生き残れましたなぁ……」
「左様ですな、世南。されど、このまま北上を続ければ、いずれ中原の群雄――とりわけ瓦崗軍の李密らと相対することになりましょう」
「宇文化及が傀儡として立てた楊浩様では、あの猛者たちを征することは難しいでしょうな……」
「宇文化及とて同じこと。所詮は担がれた神輿に過ぎませぬ。あの軽さでは、一吹きで吹き飛ばされましょう。――それにしても、お兄上のこと、誠に残念でした……」
欧陽詢の口から出た言葉に、虞世南の顔が暗く曇る。
「痛み入ります……。世基は確かに専横の限りを尽くしておりました。なればこそ、因果応報と言わざるを得ませぬ……。されど、我が血を分けた兄弟。無念でなりません……」
「ただ、儂としては、貴殿が生きていてくれて本当によかったと思っております。どうか、気をしっかりお持ちくだされ」
「……かたじけない」
形ばかりの礼節を脱ぎ捨て、名で呼び合う二人の老人は、這うような鈍足の行軍にただ身をゆだねていたのだった。
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ふと、欧陽詢は手綱を握る指先を、馬のたてがみに走らせた。無意識のうちに、文字の骨格をなぞっているのだ。
「詢、このような状況にあっても、やはり指が動きますか」
虞世南がわずかに微苦笑を浮かべて問いかける。欧陽詢はきまり悪そうに指を止め、白髭を揺らした。
「不治の病のようなものですな。文字の構造を考えておらねば、この乱世の濁流に心が呑まれてしまいそうでいかん。……そういえば、長安へ行ったあの小僧はどうしていることか」
欧陽詢の脳裏に、真っ直ぐな目で墨を磨っていた弟子の玄功の姿がよぎる。
「玄功殿ですか。彼ならば、どこへ行っても泥中の蓮のごとく、己の書を貫いているでしょう」
「ふん、あやつの生真面目なだけの字が、激動の長安でどう変わるか……。一目見てやりたいものだがな」
北へと向かう絶望の行軍の中、二人が見つめる先は、ただ一つの「書の深淵」であった。
一方、その頃の長安――。
遠ざかっていく大軍を見送る群衆の中に、玄功の姿があった。
彼らが巻き上げる凄まじい土煙を浴びながら、玄功は未だに肩に残る李世民の力強い手の感触と、出陣していった靖凱の言葉を思い出していた。
(家のことは頼んだよ、か……。靖凱殿たちが命を懸けて戦場へ向かう間、私はこの長安で、私にできる役目を果たさねば)
真新しい官服の袖をそっと握りしめ、玄功は静かに歩き出す。遠い江都の空で、自分を案じているであろう師・欧陽詢の厳しい顔が、ふと頭をよぎったような気がした。
かくして六一八年六月。玄功を長安に残し、唐と西秦、両雄の激突の火蓋が切って落とされたのだった。




