長安の灯火、影の蠢き
西暦六一八年五月。唐王・李淵は、隋の恭帝よりの禅譲を受け、ここに大唐初代皇帝として即位した。その陰に、玄功らがもたらした「白紙の勅書」があったことは、ごく一部の人間のみが知る事実であった。
かくして長安では、新王朝の誕生と共に、あらゆる事象がかつてないほどの熱量を帯びて、あわただしく動き始めていた。
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「勅である。この度の功により、汝、虞靖凱を正六品上、千牛備身に任じ、特に秦王の護衛として派遣する。またこれに伴い官服を授け、併せて役宅を与えるものとする。次に、汝、橘玄功は正九品上、秘書省校書郎に任ずる。また、これに伴い官服を授ける。ありがたくこれを受けよ。以上」
「ははぁ――、ありがたき幸せ!」
靖凱は勅使として訪れた劉文静から、深い緑の官服とその身分を示す告身、そして銅の魚符を恭しく受け取った。次に玄功もまた、真新しい浅青色の官服を受け取る。
前途洋々とした二人に対し、いつもは厳しい顔の文静がいささか頬を緩めて言った。
「両君とも実に喜ばしい。おめでとう」
「劉殿、ありがとうございました」
「なんの。貴殿らの働きあればこそ、無事に即位の儀が行われたのだ。陛下にあらせられても、この度の功績を高く評価されてのことである……。そこで、だ……」
文静は長く伸びた顎髭に指を絡ませながら、屋敷の外へと視線を向けた。
「この度の任官で、玄功殿も官吏として独り立ちをせねばならん。いつまでも欧陽詢殿の邸に住み続けるというのも、いささかな……」
「そうなのですか?」
玄功が傍らにいた家宰の張に顔を向けると、老家宰は静かに頷いた。
「そうですね……。本来、九品ともなれば官舎に入るのが習わしでございます」
「左様。じゃが現在の長安は何かと物入りでな、新たな官舎を差配するのが至難なのじゃ。そこで、靖凱殿に与えられる役宅の一部を借り受け、一時そこを官舎とするのはいかがか? なに、ほんの一時のことじゃ。いかがかな、両君」
「某は構いません。玄功殿さえよければ。どうする?」
靖凱の問いに、玄功も迷わず頷いた。
「私も異存ありません。では、よろしくお願いします! あぁ、そうだ!」
「どうしたのじゃ? 何か不都合でも?」
「い、いえ。できれば家人として、阿成大哥と赫麗姐さんも……連れていって構いませんか?」
「なるほど、それは構わぬ。九品の官吏ともなれば、家人の一人や二人が居るのは当然のことじゃ」
「よろしいですか、張さん……」
玄功が伺いを立てると、家宰は穏やかな顔で答えた。
「構いませんよ。どうせすでにそういう話になっていたのでしょう? 阿成、お前はそれでいいのですね?」
今までうつむいていた阿成が、ぱっと顔を輝かせた。
「はい! 俺としちゃぁ、無論ついていきます!」
「ならそうなさい。旦那様も否とはおっしゃらないでしょう」
こうして、玄功らは新しい生活を始めることとなった。
*****
――時計の針を少しばかり戻り、もう一人の同行人であった僧・旻の、知られざるその後の動向についてである――
旻は玄功らの処遇が決まるより早く、長安の学僧として大興善寺に入っていた。彼が寺に向かうため、広大な朱雀大通りを歩いていた時のことである。
「おぅ、久しぶりだな!」
どこか聞き覚えのある声がした。旻が振り返ると、そこには逸人が立っていた。
「やはり貴殿か……。そろそろ現れるのではないかと思っていましたよ」
「なんだ、お見通しか。……あいつ(玄功)には、その化けの皮を剥いだ中身を見せなかったらしいじゃねーか」
「フッ……」
いつもの飄々とした旻は、そこにはいなかった。何やら凍てつくような、冷徹な気がその身から立ち上っている。
「何を言うかと思えば。……あなたの息子はあなたと違い、人を信じすぎますからな」
「まぁ、それは仕方がないさ。苦労したっつっても、そこらのガキの苦労だからなぁ」
「でしょうな……」
「玄功から聞いたぜ。霧の中、お前さんの乗った馬の嘶きで敵に居場所を悟られたってな」
「で?」
「お前、ワザとやったろ?」
旻の口角が、わずかに吊り上がった。
「さあ、どうでしょうね。どちらでもよいでしょう。結局、助かったのですから……」
「……相変わらず可愛げのない坊主だ。また玄理の奴に嫌味を言われるぜ?」
「さて……彼が生きていれば、の話ですがね」
「……本当にお前は坊主なのかね?」
「何とでも言えばよいでしょう。それよりも、貴方に一つ言っておきます」
「なんだぁ?」
「玄功殿。彼は我が倭国に、私と同じ船で帰還させます。これは絶対です」
旻の眼差しが、逸人を射抜くように貫いた。
「な……。あいつがそんなこと言ってたのか?」
「玄功殿は何も。ですが、彼は我が国にとって欠かせぬ大事な人物です。彼の記した書を見ましたが、あれを是が非でも我が国に……」
逸人は、眼前の「怪物」を睨み返した。
「さて、お前さんの言う通りになりますかね?」
「よいでしょう。いずれ分かることです。では、私はこれで……」
ひょいと向きを変え、再び朱雀大通りを歩き出す旻。その後ろ姿を目で追いながら、逸人は呟いた。
(やっぱりあいつは、バケモノだな……)
*****
時を同じくして。劉文静は李淵のもとへ戻り、宮殿の一室で密談を交わしていた。
「で、どうであった?」
皇帝の象徴である赭黄袍を身にまとった李淵が、文静と対していた。
「陛下。こちらの思惑通りに事は運びました」
「そうか。にしてもそちの思惑通りにこうもいくとは。……やはり、考えすぎではないか?」
「念には念を入れねばなりませぬ。今まさに創業の時。小さな綻びが、大業を揺るがす過ちにならぬとも限りませぬゆえ」
「まあよい、この件はそちに委ねた。だが、よく考えたものだな、文静よ。多忙を口実に奴らを一処へ集め、監視の目を光らせるとは……」
「お褒めに預かり……」
「ふっ。ますますお前が我が幕下にいて頼もしいと思ったぞ」
「恐悦至極に存じます」
文静は深く頭を垂れたが、その口元には冷徹な計算の跡が微かに残っていた。
「……陛下。あの『白紙の勅書』は、諸刃の剣にございます。正当性を担保する宝物であると同時に、扱いを誤れば旧勢力を焚き付け、火種となりかねませぬ。それをもたらした者たちを野放しにするのは、虎を野に放つも同然」
「……ふむ。だからこそ、秦王(世民)の幕下に組み込み、目に見える場所に繋ぎ止めたか」
李淵は玉座の肘掛けを指先で軽く叩いた。その音は、規則正しく響く。
「左様。武勲に勝る靖凱には、秦王府で千牛備身という『名誉の鎖』を。知に長けた玄功には、秘書省の職という『多忙の檻』を。そして、民衆の心に潜り込む僧・旻には、大興善寺という『聖域の監視』を。それぞれに相応しき居場所を与えれば、彼らは己が監視されていることすら忘れ、唐の礎として粉骨砕身いたしましょう」
「くくっ……。相変わらず情け容赦のない男よ。だが、欧陽詢の弟子に、あの稀代の書家の影を重ねているのは私だけではあるまい」
李淵の瞳に、ふと懐かしむような色が混じった。
「あの若者の筆致には、人を動かす『熱』があった。文静よ、監視は怠るな。だが……あやつらの才能を、枯らすような真似だけはするなよ。この唐には、武力だけでは描ききれぬ『華』が必要なのだ」
「御意。陛下の慈悲に背かぬよう、適切に差配いたします」
文静は慇懃に礼を執り、静かに部屋を辞した。
一人残された李淵は、窓の外に広がる長安の夜景に目を向けた。新しき都、新しき時代。その歯車が、一人の若き書生と一人の剣客を巻き込みながら、音を立てて回り始めていた。




