表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/30

謁見

「こりゃあ、またとんでもないモノを持ってきたな……」


 李世民りせいみんが白紙の勅書を見つめ、低く唸った。その瞳には、驚きと共に、時代を飲み込もうとする若き野心が火花を散らしている。


「そうですな……。いずれにせよ、これの処遇は大丞相だいじょうしょう李淵りえん様に決めていただく必要がございます」


 劉文静りゅうぶんせいの言葉に、世民は深く頷いた。


「うむ。……なぁ劉殿。すまんが、そっちは頼めるか?」


「若将軍はいずこに?」


「あぁ、俺は玄功げんこう殿が報せてくれた物資を回収してくる。兵糧の蓄えは一日も早いほうがいいからな」


「なるほど。承知いたしました」


 劉文静が恭しく礼を執ると、世民は玄功に向き直り、その肩を力強く叩いた。


「ということだ。お前たちはこの劉殿と共に長安を目指してくれ。道中の安全は俺が保障する」


 嵐のような気配を残し、世民は足早に部屋を出て行った。

 かくして一行は、唐軍の小隊による厳重な護衛を伴い、一路長安へと向かった。


 数日後、ついに眼前に現れたのは、かつての隋の都・大興城――いまや唐の根拠地となった長安である。城門に翻る無数の「李」の旗印が、時代の主役が入れ替わったことを無言で告げていた。


 軍事拠点と化した大丞相府の一室。そこに、威厳と疲労を等しく湛えた初老の英雄、李淵が座していた。


「……欧陽詢おうようじゅん殿の弟子と申すか」


 李淵の鋭い視線が玄功を射抜く。玄功は震える手を押さえ、懐から一通の手紙を差し出した。


「はい。師より、唐国公とうこくこう様へ直接お渡しするようにと」


 李淵は手紙を受け取ると、その封を切り、書かれた文字を一瞥した。


「……ほう」


 その瞬間、李淵の表情から険しさが消えた。一文字一文字が鉄釘を打ち込んだような、厳格にして端麗な筆致。欧陽詢の書は、いかなる印章よりも雄弁に、その真実を物語っていた。


「間違いない。この筆運び……欧陽殿その人のものだ。あの偏屈な男が、これほどまでに一人の若者を案じ、推挙するとはな」


 李淵は小さく笑みを漏らすと、次に玄功が差し出した木箱に目を移した。そこには、隋の御璽が鮮やかに捺された、あの「白紙の勅書」が納められている。


 李淵の手が、静かにその絹地に触れた。


「……玄功よ、そなたは、自分が何を運んできたか分かっているか」


「はい。……新しい世の『正当性』にございます」


 玄功の答えに、李淵は満足げに目を細めた。


「左様。欧陽殿は、私に『天命を完遂せよ』と背中を押してくれたわけだ」


 李淵は劉文静を振り返り、重々しく告げた。


「文静よ。蕭瑀しょううらとこれの扱いを検討せよ。一刻を争うぞ」


*****


「して、玄功よ。功績のあったお前たちに褒美を取らせる。何か望むものはあるか?」


 李淵の問いに、玄功は迷いなく答えた。


「……ございます!」


「ほう、なんなりと申せ。お前の働きは、文字通り千金に値するものだ」


「千金は要りませぬ。私には、ただ一つだけ願いがございます」


「何だ、その願いとは?」


「師・欧陽詢おうようじゅん、そして虞世南ぐせいなん様の身の安全を、何卒お図りいただきたいのです」


 広間に居並ぶ幕僚たちがざわめく中、李淵は意外そうに目を細めた。


「……それだけでよいのか? 自身の官位や富を望まぬというのか」


「はい。師は自らの命を懸け、私たちをここまで送り出してくださいました。この功があるならば、それは私ではなく、江都で耐え忍んでいる師らが受け取るべきものにございます」


 玄功の声が、力強く広間の空気を揺らす。その傍らでこうべを垂れていた靖凱せいがいは、誇らしげに口元を綻ばせた。


「……ふむ。さすがは欧陽殿の愛弟子よな。分かった、その願い、この李淵が聞き届けよう。必ずや善処することをここに誓う」


 李淵は満足げに頷くと、傍らに控える劉文静りゅうぶんせいへ視線を投げた。


「よいか、文静。玄功の現在の官位は?」


「隋の太常寺にて、従九品下じゅうくひんげにございます」


「ならば、直ちに改めて唐の正九品に任じ、出仕を命ずる。配属先は追って沙汰を出す。……異存はないな?」


「承知いたしました」


 劉文静の短い返答を背に受け、一行は李淵への拝礼を済ませると、住み慣れた長安の欧陽詢邸へと向かった。


*****


「……ただいま、帰りました」


 懐かしい門を潜り、玄功が声を絞り出す。


「おぉ、玄功! 無事で、何よりです。……あるじには、お会いできたのですね?」


 出迎えたのは、老家宰の張忠衡ちょうちゅうこうであった。


「はい……」


 玄功はこれまでの経緯と、李淵から賜った言葉をありのままに伝えた。


「左様でございますか……。唐公様が旦那様方の身を案じてくださるとは、何よりの朗報。よくぞやり遂げましたね、玄功」


 老家宰は目尻を拭い、慈しむように玄功の肩を叩いた。


「さあ、まずは食事を摂り、ゆっくりとお休みください。殿、赫麗かくれい殿、みん殿のお部屋もすぐに整えさせます。……そして阿成あせい、お前もよく勤めを果たした。今夜は泥のように眠るがよい」


 主のいない邸宅に、久方ぶりの灯がともる。

 激動の旅路を終えた一行は、新しい帝国の産声を聞きながら、束の間の平穏な眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ