謁見
「こりゃあ、またとんでもないモノを持ってきたな……」
李世民が白紙の勅書を見つめ、低く唸った。その瞳には、驚きと共に、時代を飲み込もうとする若き野心が火花を散らしている。
「そうですな……。いずれにせよ、これの処遇は大丞相・李淵様に決めていただく必要がございます」
劉文静の言葉に、世民は深く頷いた。
「うむ。……なぁ劉殿。すまんが、そっちは頼めるか?」
「若将軍はいずこに?」
「あぁ、俺は玄功殿が報せてくれた物資を回収してくる。兵糧の蓄えは一日も早いほうがいいからな」
「なるほど。承知いたしました」
劉文静が恭しく礼を執ると、世民は玄功に向き直り、その肩を力強く叩いた。
「ということだ。お前たちはこの劉殿と共に長安を目指してくれ。道中の安全は俺が保障する」
嵐のような気配を残し、世民は足早に部屋を出て行った。
かくして一行は、唐軍の小隊による厳重な護衛を伴い、一路長安へと向かった。
数日後、ついに眼前に現れたのは、かつての隋の都・大興城――いまや唐の根拠地となった長安である。城門に翻る無数の「李」の旗印が、時代の主役が入れ替わったことを無言で告げていた。
軍事拠点と化した大丞相府の一室。そこに、威厳と疲労を等しく湛えた初老の英雄、李淵が座していた。
「……欧陽詢殿の弟子と申すか」
李淵の鋭い視線が玄功を射抜く。玄功は震える手を押さえ、懐から一通の手紙を差し出した。
「はい。師より、唐国公様へ直接お渡しするようにと」
李淵は手紙を受け取ると、その封を切り、書かれた文字を一瞥した。
「……ほう」
その瞬間、李淵の表情から険しさが消えた。一文字一文字が鉄釘を打ち込んだような、厳格にして端麗な筆致。欧陽詢の書は、いかなる印章よりも雄弁に、その真実を物語っていた。
「間違いない。この筆運び……欧陽殿その人のものだ。あの偏屈な男が、これほどまでに一人の若者を案じ、推挙するとはな」
李淵は小さく笑みを漏らすと、次に玄功が差し出した木箱に目を移した。そこには、隋の御璽が鮮やかに捺された、あの「白紙の勅書」が納められている。
李淵の手が、静かにその絹地に触れた。
「……玄功よ、そなたは、自分が何を運んできたか分かっているか」
「はい。……新しい世の『正当性』にございます」
玄功の答えに、李淵は満足げに目を細めた。
「左様。欧陽殿は、私に『天命を完遂せよ』と背中を押してくれたわけだ」
李淵は劉文静を振り返り、重々しく告げた。
「文静よ。蕭瑀らとこれの扱いを検討せよ。一刻を争うぞ」
*****
「して、玄功よ。功績のあったお前たちに褒美を取らせる。何か望むものはあるか?」
李淵の問いに、玄功は迷いなく答えた。
「……ございます!」
「ほう、なんなりと申せ。お前の働きは、文字通り千金に値するものだ」
「千金は要りませぬ。私には、ただ一つだけ願いがございます」
「何だ、その願いとは?」
「師・欧陽詢、そして虞世南様の身の安全を、何卒お図りいただきたいのです」
広間に居並ぶ幕僚たちがざわめく中、李淵は意外そうに目を細めた。
「……それだけでよいのか? 自身の官位や富を望まぬというのか」
「はい。師は自らの命を懸け、私たちをここまで送り出してくださいました。この功があるならば、それは私ではなく、江都で耐え忍んでいる師らが受け取るべきものにございます」
玄功の声が、力強く広間の空気を揺らす。その傍らで頭を垂れていた靖凱は、誇らしげに口元を綻ばせた。
「……ふむ。さすがは欧陽殿の愛弟子よな。分かった、その願い、この李淵が聞き届けよう。必ずや善処することをここに誓う」
李淵は満足げに頷くと、傍らに控える劉文静へ視線を投げた。
「よいか、文静。玄功の現在の官位は?」
「隋の太常寺にて、従九品下にございます」
「ならば、直ちに改めて唐の正九品に任じ、出仕を命ずる。配属先は追って沙汰を出す。……異存はないな?」
「承知いたしました」
劉文静の短い返答を背に受け、一行は李淵への拝礼を済ませると、住み慣れた長安の欧陽詢邸へと向かった。
*****
「……ただいま、帰りました」
懐かしい門を潜り、玄功が声を絞り出す。
「おぉ、玄功! 無事で、何よりです。……主には、お会いできたのですね?」
出迎えたのは、老家宰の張忠衡であった。
「はい……」
玄功はこれまでの経緯と、李淵から賜った言葉をありのままに伝えた。
「左様でございますか……。唐公様が旦那様方の身を案じてくださるとは、何よりの朗報。よくぞやり遂げましたね、玄功」
老家宰は目尻を拭い、慈しむように玄功の肩を叩いた。
「さあ、まずは食事を摂り、ゆっくりとお休みください。虞殿、赫麗殿、旻殿のお部屋もすぐに整えさせます。……そして阿成、お前もよく勤めを果たした。今夜は泥のように眠るがよい」
主のいない邸宅に、久方ぶりの灯がともる。
激動の旅路を終えた一行は、新しい帝国の産声を聞きながら、束の間の平穏な眠りについた。




