李世民
采芝郷の穏やかな緑が、遠い夢のように思えるほど馬を飛ばした。
一行の目の前に現れたのは、かつて靖凱と刃を交えたあの峻険な崖に、張り付くようにそびえ立つ長安南東の要衝――武関である。
「……あの頃とは、空気がまるで違いますな」
靖凱が鞍の上で身を硬くした。かつての隋軍に漂っていた、腐敗した淀みはない。関門に翻るのは、鮮やかな「唐」と「李」の旗印。行き交う兵士たちの足取りには、新国家の夜明けを信じる者の迷いのない力強さが宿っていた。
「おい、次だ。止まれ!」
検閲の列に並ぶ玄功たちの前に、槍を構えた兵士が立ちはだかった。
「お前たち、どこから来た?」
「……江都より、李淵様へ書状を携えて参った者です」
「何だと? 怪しい奴め、捕らえろ!」
兵士たちが一斉に玄功らを取り囲み、鋭い矛先を突きつけた。
「待てっ!」
靖凱が剣の柄に手をかけた瞬間、玄功が鋭く制止した。
「手向かいはいたしません。ですが、火急の用件なのです。この関の責任者にお取次ぎ願いたい」
玄功は馬を降り、騒ぎを聞きつけて寄ってきた将校らしき男に対し、文官らしい隙のない礼を執った。すると――。
「おい、どうした。何事だ」
背後から響いたのは、若々しくも地を這うような重みのある声だった。
「こ、これは将軍!」
兵士たちが慌てて道を空け、恭しく頭を下げる。そこには、豪華な鎧を身に纏った若き偉丈夫が立っていた。その後ろには、五十を過ぎたであろう、剃刀のように鋭い眼光を放つ文官が控えている。
「そこの若造。……お前は何者だ?」
「はい。私は隋国太常寺、従九品下・橘玄功と申します。我が師、欧陽詢より、唐国公・李淵様宛ての書を預かり、持参いたしました」
玄功が真っ直ぐに答えると、将軍の眉がピクリと跳ねた。
「なに、欧陽詢殿だと……。して、その内容を知っているのか?」
「はい。江都へ輸送されるはずであった輜重の隠し場所を、李淵様に献じるべく使いに出されました」
「な、何だと! それは真か!」
将軍の瞳に、獲物を見つけた鷹のような光が宿る。
「はい。……失礼ながら、将軍のお名前を伺っても?」
「ああ、失念していた。俺の名は李世民。李淵は我が父だ」
(……李世民!)
その名を聞いた玄功は、胸の鼓動が跳ねるのを抑えられなかった。目の前にいるこの若い男こそ、のちに唐の太宗として歴史に刻まれる怪物その人なのだ。
「ここでは話しにくい。関の中へ入ろう。……劉殿も、一緒に来てくれ」
「はっ、承知いたしました」
劉文静と呼ばれた文官が、玄功を射抜くような視線を向けたまま深く頷いた。
こうして、一行は武関の奥にある、冷え冷えとした一室へと案内された。
*****
「なるほど……。では、こことここ、そしてこの廃寺に隠してあるのだな!」
「はい。師が直接指示した場所を、私が清書いたしました。相違ございません」
玄功の答えに、李世民は膝を打った。
「助かった……! 実は、用意していた兵糧が心細くなってきていたところなのだ。なあ、劉殿」
李世民は子供のような屈託のない笑顔を、隣の初老の男に向けた。対する劉文静は、眉をひそめて小さく咳払いを一つする。
「将軍。正体の定かでない者を、そう簡単に信じなさいますな。……敵の策である可能性も捨てきれませぬぞ」
「まあ、そうだな。……で、どうなんだ? お前たちは敵か?」
悪童が獲物をからかうような、底知れぬ眼光を玄功へ向けた。沈黙を破り、隣に控えていた靖凱が口を開く。
「……某は虞靖凱と申します。虞世南の一族の末席に連なる者。玄功殿の身分、そして某の素性に、偽りはございません」
「ほう、欧陽詢殿の次は虞世南殿か。どうだ劉殿、これでもまだ不十分か?」
世民が再び劉文静へと視線を投げると、老文官は深い皺を眉間に刻んだ。
「ふむぅ……。とはいえですな。あまりにも話が出来すぎでございますゆえ……」
そのとき、横から遠慮がちに手が上がった。
「あのぅ……よろしいでしょうか。私は旻と申す学僧であります。江都にてこちらの玄功殿らと知己を得まして……」
そこから、旻による「旅の報告」が始まった。身振り手振りを交え、江都での凄惨な反乱の様子を語る旻。その言葉の端々に宿る真実味に、李世民と劉文静はいつしかじっと聞き入っていた。
「……ふむ。我が方の斥候が掴んでいる状況と、寸分違いませぬな」
劉文静が短く漏らす。
「では、信じていただけますか?」
「さて……。私には、今一つ納得がいかぬことがございます」
「……それは?」
「輜重のありかを知らせるためだけに、貴殿のような者が命の危険を冒してまで長安を目指す。その理由としては、いささか弱すぎる!」
鋭い眼光が玄功を射抜いた。
(さすがだな、この御仁は……)
玄功のわずかな動揺を、劉文静は見逃さなかった。
「やはり、まだ何かありますな?」
「……はい。本来であれば、唐国公(李淵)様に直接お渡しすべき重宝ですが……ご子息である李世民将軍であれば、問題はないでしょう」
玄功が阿成に視線を送ると、彼は荷の中から厳重に封じられた木箱を取り出した。
「こちらをご覧ください」
李世民が蓋を開け、包まれていた黄色の絹地を解いた瞬間。劉文静の表情が、凍りついたように硬直した。
「こ、これは……っ」
「はい。師と虞世南様が私に託した、御璽の捺された勅書です」
「……何も、書かれておらぬではないか」
世民の呟きを、劉文静が震える声で遮った。
「……つまり、中身(内容)は好きにせよ……ということですな」
部屋を支配していた空気が、一瞬にして凍りつくような静寂に包まれた。




