采芝郷での日々
「ほほ、無事の再会、何よりじゃ」
白翁が長く伸びた白い髭を撫でながら、玄功らを穏やかに迎えた。
「また、ご厄介になります」
「ふむ、まずはゆるりとなさるがよい。長旅で疲れ果てておろう」
一行は里の者に案内され、あてがわれた宿舎へと向かった。その場に残ったのは、白翁と玄功の二人だけ。静寂が満ちる中、白翁がふと目を細めた。
「……して、その懐に入っているものは、何かな?」
一瞬、玄功の肩が跳ねた。だが、相手が知略に長けた白翁であれば、隠し通すことはできぬと思い直す。
「実は……これを白翁殿に預かっていただきたいのです」
玄功は意を決して、懐から一巻の巻子を取り出した。
「ふむ……」
白翁はそれを受け取ると、表紙に指を走らせ、静かに玄功を見た。
「中を見ても?」
「……はい」
白翁の手によって、ゆっくりと巻子が紐解かれていく。
「む、むぅ……っ」
低い嘆息とも、呻きともつかぬ声が二人の間に響いた。その場を支配していた空気が、一瞬にして墨の香と歴史の重みに塗り替えられていく。
「こ、これは、もしや……」
「はい。王右軍――王羲之の『蘭亭序』。その真筆です」
白翁はじっくりと、一文字一文字を吸い込むように見終えた後、震える手で丁寧に巻子を巻き戻した。そして、それを自身の前にスッと置いた。
「……これを、どこで?」
「はい。実は……」
玄功はこれまでの道中で起きた出来事を、包み隠さず白翁に語り始めた。
*****
その夜、白翁の屋敷には赫麗の姿があった。
「長き旅、ご苦労であった。して、かの者はどうであった?」
「はい……」
赫麗は、別れてからの玄功の行動、そして江都での動乱のあらましを詳しく白翁に伝えた。
「やはり、不思議な子よな」
白翁は目を閉じ、思索にふけるように白い髭を撫でた。
「かの者の行く先、まるで星が導くかのごとく、静かに、されど大きく時代が動いておる。……そして、これか」
白翁は目の前に置かれた巻子を、宝物を扱うようにそっと持ち上げた。
「『蘭亭序』……。智永という僧が、玄功君の筆跡を見て、彼に託すと決めたそうです」
「ほう、智永は他に何と?」
「多くは語りませんでしたが……ただ、『守るだけでは見えぬ景色もあるのだな』と。何かの重荷から解放されたような、穏やかな顔をしておりました」
すると白翁は、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ホッホ、そう言いおったか。なるほど、なるほど」
実に愉快そうに肩を揺らす白翁。
「でお主、この後はどうするつもりじゃ?」
「それは……」
二人の静かな夜は、更けていった。
*****
「ちょっと、じっとして! 傷口が開くわよ!」
「……」
宿舎の一室では、赫麗が靖凱の傷を縫合していた。阿成は、痛々しさに目を覆いながらも、必死に手伝っている。
「よし、これで大丈夫。傷は深くまでは達していないわ。これならまだ、剣は握れるはずよ」
「……かたじけない」
麻酔も拒み、縫合の激痛を無言で耐え抜いた靖凱が、短く礼を言った。
「虞校尉は大したもんだぜ……。俺ならとっくに音を上げて、里中に響くような悲鳴をあげてたところだ」
血の付いた布を片付けながら、阿成が心底感心したように言う。
「あなただって、あの時は大怪我してたじゃない」
「赫麗さんよ、あの時の俺は気を失ってたんだぜ? 正気のまま針を刺されるなんて、俺にはとても真似できねえよ……」
阿成が呆れたように肩をすくめると、赫麗は「さあ、これを飲んで」と薬の入った器を差し出した。
そこへちょうど、訓練を終えた玄功たちが戻ってきた。
「あ、気を付けて靖凱殿! 赫麗が渡す薬には、絶対何か裏があるから!」
器を口に運ぼうとした靖凱が、ハッとして動きを止める。
「ちょっと玄功……あなたって人は! さすがに怪我人にそんな意地悪しないわよ!」
「嘘つけ! 俺にはあんなに無茶させた癖に!」
「それは、生意気な都会の子に一泡吹かせてやろうと思ったからよ!」
「ほら、やっぱり……」
次第に赫麗の眉間に皺が寄り、声に鋭さが混じり始める。
「……分かったわ。そんな軽口が叩けるほど元気なら、もっと『修行』が必要なようね」
表面上は微笑んでいるものの、その顔は明らかに引きつっている。気配を察知した玄功は、本能的に一歩、また一歩と後ずさりした。
「なあ虞校尉……なんであいつは、わざわざ赫麗を怒らせるんだろうな。わざとか?」
「さあ……な……」
脱兎のごとく逃げ出す玄功と、それを般若の面相で追う赫麗。阿成と靖凱は、遠ざかる二人の背中を、ただ呆然と眺めるしかなかった。
*****
采芝郷に滞在する間、玄功が日課にしていることが二つあった。一つは身体を鍛える修行、そしてもう一つは『蘭亭序』の臨書である。
「ほう……。実によく似ておる」
背後から覗き込んだ白翁の言葉に、玄功は筆を止めずに短く応えた。
「いいえ。まだ、これでは駄目です」
「お主がこの書に求めておるものは、何じゃ?」
「……文字の形は追えます。ですが、形を真似ようとすればするほど、この『書』が放つ威厳から遠ざかってしまう。私が写し取りたいのは、その魂なのです」
「ふむ、なるほどのぅ。目に映りながら、写せぬもの……か。まぁ、じっくりと取り組んでみなされ」
「ありがとうございます」
玄功は再び紙に向かい、ひたすら一閃一画を刻みつけていった。
*****
「傷の具合はどうかな?」
「はい。おかげさまで万全とは言えませんが、抜糸を終え、随分と動かせるようになりました」
靖凱が腕を回しながら答えるのを見て、白翁は満足げに頷いた。
「そうか、それは重畳。……では玄功殿、そろそろ発つか?」
「はい。この度も過分なご厄介になりました」
「なに、気にする必要はない。これもまた縁というものじゃ」
「明日、長安へ向かいます」
「うむ。気を付けて行かれよ」
一行は旅の支度を整え、明日に備えて早々に横になった。だが、玄功だけは眠れぬ夜を過ごしていた。
深夜、玄功は再び独りで白翁のもとを訪ねた。
「……では改めて、『蘭亭序』をよろしくお願いいたします」
「引き受けた。じゃが、なぜこれをここに置く? お主自身が持っていた方が、心強いのではないか?」
しばしの静寂が流れた。行灯の火が小さく爆ぜる。
「白翁殿がお信じになるかは分かりませんが……昨夜、夢を見ました」
「ほう、どのような夢じゃ?」
「この『蘭亭序』がある高貴な方の目に留まり、その御方と共に土に埋葬される……そんな夢でございます」
「……で、そなたはその予感を信じた、と?」
「はい」
灯火を映して輝く白翁の瞳が、玄功の決意を射抜くように見つめた。
「……よかろう。そちがそこまで言うのなら、一時、預かるとしよう」
「ありがとうございます」
「じゃが、お主が臨書した中でも出来の良いものを、形見代わりに持っておくがよい。明日までに、わしが表装を整えておこう」
「分かりました。何から何まで、ご迷惑をおかけします」
「よいよい。では、また明日な」
こうして、旅立ちの前夜は静かに更けていった。




