采芝郷、再び
深い霧を切り裂き、崖の上から漆黒の影が舞い降りる。その女は、獲物を射抜くような鋭い眼光を放ちながら叫んだ。
着地するよりも早く、彼女の両手から二条の銀光――飛刀が放たれる。
「ぐあぁっ!」
吸い込まれるように兵士二人の喉を貫いた刃に、敵はもがき苦しみながら崩れ落ちた。
一瞬の出来事に、玄功は息を呑んだまま放心していた。だがその眼は、霧の中に立つ漆黒の姿を、吸い寄せられるように見つめていた。
「……赫麗!?」
その存在を確かめるように漏れた玄功の声に、彼女は視線を敵に据えたまま応える。
「感傷に浸るのは後よ! まったく、あんたたちは相変わらずなんだから……」
赫麗はしなやかな動作で靖凱の傍らに降り立った。
「立てる?」
「……ああ、すまん」
靖凱の前に立ちはだかり、赫麗は残る七人の敵を冷徹に見据えた。
「おい、小娘一人に負けるな! やっちまえ!」
兵士たちが一斉に赫麗へ斬りかかる。しかし、その包囲網を破ったのは、彼女の後方から突き出された一本の長い棒だった。
先頭の兵士の脳天を、しなるような一撃が直撃する。
「俺を忘れんじゃねえぞ!」
阿成がニヤリと笑い、赫麗と視線を交わした。
彼女はその呼吸に応えるように、スッと左へ体を捌く。棒で体勢を崩した兵士の脇腹へ、容赦のない蹴りを見舞った。
「ぐおっ!」
声にならない呻きを上げて倒れる兵士。赫麗はその背を足場にして高く跳躍した。空中で抜き放った剣が、霧の中に銀の円を描く。着地と同時に兵士二人の背を斬り裂き、彼女は阿成へ短く視線を送った。阿成もまた、言葉を介さずともその意図を理解したかのように深く頷く。
そのわずかな隙に、靖凱が左手で愛剣を拾い上げ、背後から迫る二人を一閃のもとに葬り去った。
残る敵は四人。攻勢は完全に逆転した。敵兵は互いの背を合わせ、前後から迫る男女の影に怯えながら対峙した。
「貴様ら、朱粲の兵か?」
靖凱が肩で息をしながら、低く問い詰める。
「お前たちに教える義理はない!」
「そう。どのみち、生かして帰すつもりはないけれどね!」
赫麗がスッと身を沈め、足元の砂を掴んだ。刹那、目潰しとして兵士らの顔面へ投げ放つ。
「ふ、はっ!?」
反射的に目を閉じた敵を、靖凱は見逃さなかった。一人の太腿を斬り、返す刀でもう一人の膝裏を払う。鮮血が地面の泥を赤く染め、悲鳴とともに敵が崩れ落ちた。
残った二人が、仲間の絶叫に釣られて薄目を開けた瞬間。
漆黒の閃光と化した赫麗の手によって、彼らの意識は永遠に刈り取られた。
*****
静寂の戻った霧の中、呆然と立ち尽くす玄功に、赫麗は厳しい視線を向けた。
「全く、あんたたち! 敵のど真ん中に突っ込むなんて、何を考えてるのよ。……で、怪我はないの?」
語気は強いが、その瞳には隠しきれない安堵が滲んでいる。
「いやぁ、助かったぜ! 前回といい、今回といい、命の恩人だな!」
阿成が照れくさそうに頭を掻く。そんな喧騒を余所に、旻だけは固く目を閉じ、合掌した手を激しくこすり合わせながら、一心不乱に経を唱え続けていた。
「お坊様、もう終わりましたよ」
赫麗が努めて優しく声をかけると、旻はようやく薄らと目を開け、恐る恐る彼女を盗み見た。
「……恐ろしや。ここに、美しき黒鬼がおる……」
「くっ、黒鬼ですって!?」
非難の声より、赫麗の手の方が早かった。
ピシャリ、と乾いた音が霧に響き、旻の頬に鮮やかな紅葉が散る。
(ああ、どこかで見た光景だな……)
強烈な既視感を覚えながら、玄功は苦笑して二人を眺めた。それから、一歩踏み出して問いかける。
「ありがとう、赫麗さん。……ところで、君はなぜこんな場所に?」
ふぅ、と溜息を吐きながら倒れ伏す旻を一瞥し、赫麗は玄功に向き直った。
「こんな場所って何よ。あんたたち、本当に鈍感なんだから。私は漢江で別れたふりをして、ずっと後ろをつけてたのよ! 気が付かなかったでしょ?」
勝ち誇ったような、したり顔で一同を見渡す赫麗。
「えっ、そうだったのか!? 全然気づかなかったぜ!」
阿成が素っ頓狂な声を上げ、呆気にとられる。だが、彼女の口から出た次の言葉は、さらに意外なものだった。
「あんたたちは素人だから仕方ないけど、智永和尚だけは私の存在に気づいていたわ。……っていうか、和尚には事情を話して、永欣寺で寝泊まりさせてもらっていたんだから」
玄功と阿成は、思わず顔を見合わせた。あの食えない老僧の高笑いが脳裏に蘇る。和尚はすべてを分かった上で、知らぬふりをしていたのだ。
かくして、死地を脱した一行は、赫麗の案内により、再び彼女の故郷――采芝郷へと向かうことになった。
*****
山間を縫うような険しい獣道を進むこと五日。一行はようやく、采芝郷の入り口へと差し掛かった。
「ほう、こんな山奥に里があるとは……。話には聞いていたが、にわかには信じがたいな」
負傷の癒えぬ体で、靖凱が感心したように声を漏らす。すると、先頭を行く赫麗が、振り返ることなく馬上から応えた。
「普通の人は近づけない場所だから。ここは、選ばれた者しか辿り着けないのよ」
その凛とした横顔を見つめながら、玄功はずっと抱いていた疑問を口にした。
「あのさ、赫麗。ちょっと聞きたいことがあるんだが……」
「なあに?」
わずかに声を弾ませる赫麗。再会の喜びか、故郷が近い安心感か、その背中にはどこか余裕が漂っている。
「……ここに来るまでの道、俺たちが里を出た時の道と、全然違わないか?」
玄功の脳裏には、かつて里を後にした際の、あの世にも忌まわしい泥濘と絶壁の悪路が蘇っていた。
「えっ? あ……ああ、あれね。ほら、あの時はあっちの道しか通れなかったというか、なんというか……」
途端に赫麗の肩がビクリと跳ねた。明らかに動揺している。その様子を横から見ていた阿成が、ジト目を彼女に向けた。
「お前……ひょっとして、あの時の嫌がらせ、わざとだったのか!?」
「い、いやっ! わざとじゃないわよ! ……たぶん。あ、ほら、里が見えてきたわ。急ぐわよ!」
図星を突かれた赫麗は、真っ赤な顔で馬の腹を蹴った。ヒヒィンと嘶きを上げ、逃げるように速度を上げる馬。
「こら、待て! 白状しろ! あの苦労を返せ!」
玄功は憤慨しながらも、どこか楽しげに馬速を上げ、逃げる漆黒の背中を追った。
「まったく……あいつら、仲がいいのか悪いのか。俺たちも遅れるな!」
阿成が苦笑しながら後に続く。
こうして一行は、山間の秘境にて、長安への旅路における最後の休息を得ることとなった。




