長安への決死行
会稽の山々に、馬の蹄の音がこだまする。
永欣寺の門を背にしてから、玄功は一度も振り返らなかった。背後から聞こえていた智永の高笑いは、いつの間にか春の風にかき消されている。
「……おい、玄功! さっきから黙りこくってどうした。腹でも下したか?」
隣を並走する阿成が、馬上でいつものように軽口を叩いた。だが、玄功には軽妙に返す余裕もなかった。
右の懐には、両巨匠から託された「白紙の勅書」。
そして左の懐には、智永から誰にも知られぬよう手渡された、王羲之の真筆『蘭亭序』。
左右の胸に、帝国の命運と、書の血脈。その両方が、心臓の鼓動を直に伝えるほど密着している。
「……ああ、平気だ。少し、考え事をしていただけだ」
玄功は短く答え、衣の上からそっと左胸を確かめた。この懐に、世界が喉から手が出るほど欲しがる至宝があることを、阿成も、後ろを行く旻も知らない。
「感傷に浸っている暇はありませんぞ」
先頭を行く虞校尉こと、虞靖凱が、鋭い視線で街道の先を見据えながら声を張り上げた。
「煬帝崩御の報せが広まれば、各地の野心家たちが一斉に動き出す。長安までの道は、これまで以上に険しいものとなるでしょう。死にたくなければ、手綱を放すな!」
靖凱の言葉は、冷酷なまでに正しかった。隋という巨大な屋根が崩れ落ち、天下は今、文字通り「主なき荒野」と化そうとしていた。
(クソ爺……あんたたちが俺にこれらを託したのは、この荒野を生き抜けってことなのか。それとも、新しい時代を書けってことなのか)
玄功は前を見据えた。何も記されていない白紙と、完成された美の極致。対極にある二つの「書」を抱え、玄功は自分一人が背負った秘密の重さに、奥歯を噛み締めた。
「虞校尉、最短の道を行きましょう。一刻も早く、長安の李淵殿のもとへ!」
「承知した。これより先、宿駅を乗り継ぎ、不眠不休で駆け抜けますぞ。遅れるな!」
四頭の馬が街道を風のごとく駆ける。夜陰に紛れ疾走するその姿は、まるで闇夜を渡る鴉か、はたまた蝙蝠か。
「玄功殿、そろそろ次の駅に到着する。そこで少し休憩しよう」
靖凱が馬を寄せ、駅の方向を指さした。
「分かりました。ですが、一刻を争います。休息は最低限にしましょう」
「あい分かった!」
会稽を出発してすでに二週間。一行はいよいよ、人肉を喰らうと噂される怪鳥・朱粲が猛威を振るう危険地帯へと足を踏み入れていた。一つ前の駅で馬を替えてから一時間。馬の呼吸は荒く、四人の体力も限界に近づいていた。
「ふぅ……、さすがに尻が割れそうだぜ。それにしても……」
阿成が顔をしかめて尻を押さえる。片や旻は、涼しい顔で、
「まだまだ修行が足りませんね。ほら、ごらんなさい。日頃の精進があれば、この程度はどうということも――」
余裕をかました直後、旻は駅舎の門檻【敷居】に足を引っかけ、盛大に転がった。
「ほら見ろ、人を馬鹿にするからだ!」
阿成がケラケラと笑う。旻の失態のおかげで、一行の間にいくばくかの弛緩した空気が流れ、小さな駅での短い休息は救いとなった。
*****
「いよいよここからが正念場だ。皆、気を引き締めよ!」
靖凱が檄を飛ばす。新しい馬に乗り換え、ここからは水場の多い難所を一気に抜けねばならない。玄功は両手で頬を打ち、気合を入れた。
「うわっ、こら旻! 泥を飛ばすな!」
「そう言われても、抗いようがありませんよ、阿成殿!」
道は徐々にぬかるみ、跳ね上がる泥が視界を遮る。
「さすがにこれでは走れぬな……。少し速度を落とそう」
馬の脚を労り、靖凱が速度を緩める。
(……急ぎたいのに……!)
はやる気持ちを抑え、泥に足を取られながらも、玄功の視線は遥か先の長安、そしてまだ見ぬ李淵の姿を捉えようとしていた。
*****
深い霧の中、沅水の流れに沿って遡る四人。
「ここで霧に包まれたのは僥倖。このまま進めば、身を隠せる小さな里があるはずです」
靖凱の背を追い、一列になって霧中を行く。そのとき、
「――シッ! 静かに」
靖凱が鋭く手を上げ、馬を止めた。周囲の気配をねじ伏せるように耳を澄ます。
「まずい、軍馬の蹄の音だ……。あっちか!」
靖凱が顔を向けた先、霧の向こうから幾重にも重なる重い足音が響いてきた。
「この霧なら、やり過ごせるかもしれん。一切の声を出すな。奴らの馬音に自分たちの蹄の音を重ねて進む。よろしいな!」
玄功たちは靖凱の合図に合わせ、慎重に馬の腹を蹴った。しかし、その刹那――。旻の乗る馬が、鼻を鳴らし、高く嘶いた。
「おい! そこにいるのは誰だ!」
霧の奥から怒号が飛ぶ。
「見つかったか。私に付いてきてください!」
靖凱が馬に鞭を入れ、最高速度で駆け始めた。玄功らも必死にそれに続く。
「いたぞ、怪しい連中だ! 逃がすな、追え!」
視界は数メートル先すら定かではない。それでも玄功たちは、靖凱の背中だけを標的にして必死に馬を飛ばした。平坦だった道は次第に上り坂へと変わり、地形は急峻な山岳地帯へとその姿を変えていく。
「次は右だ!」
「おいおい、右に左に忙しいな……!」
「しっかり付いてこい! さもなくば敵に捕まるぞ!」
道はさらに細く、迷路のように複雑な分岐を繰り返していく。
「いかん、行き止まりか!」
敵を翻弄しながら進んでいたが、とうとう断崖が行く手を阻んだ。靖凱は素早く下馬すると、腰から一振りの剣を抜き放った。
「俺の後ろへ……さあ、早く!」
玄功たちが靖凱の背後に回る。阿成は道端に落ちていた太い木の枝を拾い上げ、玄功を守るように前に立った。
「ようやく追い詰めたぜ……」
十人の兵士が悠然と馬を降り、したり顔で近づいてくる。靖凱は低く構え、一人で十人を迎え撃つ間合いを計った。
「おい、やっちまえ!」
三人の刃が同時に落ちた。靖凱は身をひるがえしてこれを躱すと、返す刀で一人の足首を深く斬り裂いた。
血が吹き出す鈍い音とともに、地面に転がりもがく兵士。
だが、それが敵の逆上を招いた。残りの兵士たちが、一斉に靖凱へと殺到する。
「敵は俺が引き受ける! 今のうちに逃げろ!」
靖凱は背後の三人に叫んだ。血を吐くような叫びだった。四方から突き出される無慈悲な刃を、靖凱は極限の集中で躱し続ける。
しかし、多勢に無勢。乱戦の隙を突き、死角から放たれた一閃が靖凱の右肘を深く捉えた。
「……クッ!」
激痛とともに指先から力が抜け、愛剣がカランと音を立てて岩肌に転がった。靖凱の顔に、無念の色が走る。兵士たちが勝ち誇ったように剣を振り上げ、玄功たちに最後の一歩を踏み出そうとした。
絶体絶命。その時であった――。
「全く……あんたたちはホント手間がかかるんだから!」
霧を切り裂くように響いた、凛とした声。
玄功は耳を疑った。そして、心臓が跳ねるのを感じた。




