智永の大悟
「自分で言っといて何じゃが、エライもんが飛び出したもんじゃ……。さて、これをお主はどうするつもりじゃ?」
智永の鋭い視線が玄功を射抜く。
「……、にわかには、判断が……」
言い淀む玄功の隣で、阿成がふいにお茶を運んできた小坊主の盆から茶碗をひったくった。
「まあ、そう難しく考えるなよ。これをどう使うか、旦那様や虞様はお前に託したんだ。玄功、お前がじっくり考えればいいさ」
一気に飲み干し、「うへぇ……苦い!」と顔をしかめる阿成。その無造作な言葉に、玄功の肩の力がわずかに抜けた。
「そうさな、お前さんの言う通りじゃ。答えが出るまで、ここで逗留するがよい」
こうして玄功たちは、永欣寺に滞在することとなった。
その夜。玄功は眠れぬまま、天井の木目を見つめていた。隣では阿成が高いびきをかいて眠っている。
(あのクソ爺……まさか、こんなものを俺に)
窓からは肌寒い風が吹き込み、夜空には新月がうっすらとその輪郭を潜めていた。
同時刻、寺の飾り橋の欄干に腰掛けた智永も、同じ空を仰いでいた。
(あの玄功という少年……世南が認めるだけのことはある。今宵は新月か。すべてが消え、新たに生まれいずるための、深き黒夜か……)
十日の月日が流れたが、玄功は答えを出せずにいた。
*****
西暦六一八年、三月十日。深夜の江都。
闇を裂く松明の炎に照らされ、武装した兵たちが音もなく移動していた。
「馬文挙将軍、用意は整いました。いつでも動けます」
「よし。何事もない顔で宮城の門を警護せよ。決行は明日、早朝だ」
夜が白々と明け始めた頃。慧日道場に集結した驍果軍を前に、司馬徳戡が猛々しく檄を飛ばした。
「聴け! 陛下(煬帝)はお前たちの望郷の念を知り、毒酒で皆殺しにする算段だ! 代わりに南方の人間を近衛兵に据えようとしているのだぞ!」
望郷の念を逆撫でされた兵士たちの憎悪が、沸点に達する。
「唯、軍の命に従わん!」
数万の叫びが地を揺らし、空気を震わせた。
三月十一日、朝。司馬徳戡が動いた。目指すは煬帝の座す成象殿。無数の軍靴が玄武門へと迫る音が、帝国の終焉を告げていた。
*****
「裴虔通殿、門を開けられよ! いざ、共に立たん!」
玄武門の外から馬文挙が裂かんばかりの声で叫ぶ。門外を埋め尽くした兵士たちの怒号が、巨大な波となって応えた。
「時は来た。いざ、開門!」
裴虔通の号令一下、朱に染まる重厚な玄武門が、軋んだ音を立ててゆっくりとその巨躯を開く。なだれ込む兵たちの歓声が地を揺らした。
「目指すは煬帝! 逆らう者は容赦いたすな、皆殺しにせよ!」
先陣を切る馬文挙に続き、驍果軍が江都宮へと雪崩れ込んだ。
かつて艶やかな色彩と芳醇な香りに満ちていた宮城は、一瞬にして凄惨な処刑場と化した。飛び散る生臭い血の匂いと、逃げ惑う人々の阿鼻叫喚が、春の朝を覆い尽くしていく。
成象殿の戸を蹴破り、馬文挙が躍り込んだ。
「ここにはおらぬか!」
荒らされた室内を見渡すと、柱の陰でガクガクと震える宦官を見つけた。馬文挙は男の襟首を掴み上げ、無理やり顔を晒させる。
「おい、皇帝はどこだ!」
宦官は恐怖に目を見開き、震える指先で窓の外を指し示した。
「……西閣か!」
*****
「司馬徳戡はどこにいるのか……?」
震える声を絞り出したのは、西閣の隅で追い詰められた煬帝であった。馬文挙は閣外の司馬徳戡を呼び寄せる。現れた徳戡は、何も言わずにその場に平伏してみせた。その沈黙の威圧に、馬文挙は我が意を得たりと煬帝を指弾した。
「陛下は都を棄てて巡遊し、外では無益な戦を止めず、内では淫楽に耽った。大人は殺され、子供は流離し、天下は家を失い、賊が蔓延っております。我らはただ、北へ帰りたいだけなのだ。これを裏切りなどと、どの口が言えようか!」
「確かに、朕は民を苦しめたやもしれぬ。……だが、卿らに不遇を強いた覚えはないぞ!」
その様子を冷めた目で見ていた司馬徳戡は、静かに顔を上げると、スッと横に手を払った。それが「終わらせろ」という合図であった。
「た、頼む。せめて、朕に毒酒を……」
徳戡は無慈悲に首を左右に振った。毒酒という「皇帝への礼遇」すら、今の彼らには惜しかった。
馬文挙が壁の絹織物を引き剥がし、手に巻き付ける。兵士たちが煬帝を椅子へとねじ伏せた。馬文挙は狼狽える煬帝の首に二重に絹を巻き付け、その渾身の力で一気に絞り上げた……。
かくして、歴史にその名を刻む暴君、隋帝国最後の皇帝・煬帝は、自らが愛した絹の感触の中で、その最期を迎えた。
*****
その日も、智永はいつもの橋の欄干に腰掛け、茫然と空を眺めていた。
ふいに、背後から猛烈な勢いで迫る蹄の音が聞こえてくる。振り返れば、そこには見覚えのある青年の姿があった。
「おーい! 虞校尉ではないか。久しぶりじゃのう!」
智永は大きく手を振り、あろうことか早馬の進路へ躍り出た。
「ドウドウ……ッ! これは何を……智永法師! 危のうございます、火急の用ゆえ先を急ぎます、失礼!」
虞校尉が手綱を引こうとしたその時、智永が低く、鋭い声を投げた。
「都で、とうとう反乱が起きたのか。え?」
「な、なぜそれを……!」
「儂を誰だと思っておる、名僧・智永様じゃぞ。千里離れていようとお見通しよ。……それよりも、その火急の用とやら、儂が片付けてやろう」
智永はひょいと鞍に乗り込んだ。
「それ、永欣寺へ向け! 答えはすべて、そこにある!」
*****
「こ、これは……!」
「驚いたじゃろう。何も書いていない勅書じゃ。虞世南が持たせたのよ」
「まことか、玄功殿!」
虞校尉の問いに、玄功は深く頷いた。
「で、お主はこれをどうするつもりじゃ?」
智永の問いに、しばらくの沈黙が流れた。やがて、玄功は重い口を開いた。
「皇帝が暗殺され、師匠や虞様が何を託したのか考え抜きました。……私はこれを、長安の李淵殿に渡そうと思います」
「なに! 李淵殿は、反乱軍の片翼ではありませんか!」
「はい。ですが……」
玄功は、かつて欧陽詢と語り合った話を静かに伝えた。
沈黙が部屋を支配する。やがて虞校尉が、決然と顔を上げた。
「……承知した。ならば、私も同行しよう。貴殿らだけでは道中も危うい。これより直ちに長安を目指しましょうぞ!」
阿成と旻はすぐさま旅支度のため、虞校尉とともに部屋を辞した。残されたのは、智永と玄功の二人だけになった。
「なるほどな。それがお前の出した答えか」
「はい。託された物の重みに、潰されそうですが……」
玄功が苦笑いを向けると、智永は少し視線を落とした。
(儂もそうじゃった……。王家の筆法。それを守ることに腐心し、これまで生きてきた。じゃが、それもここまでか……)
吹っ切れた様子の智永が、書卓の奥からあの重厚な箱を抱え直した。中から取り出したのは、王羲之が真筆――『蘭亭序』であった。
「智永殿、それは……?」
「お前に託す。乱世となれば、この宝もいつ賊に奪われるか分からぬ。それでは儂は死んでも死に切れん。……お前の中にこそ、この筆脈を遺したいのじゃ。頼んだぞ」
震える手で、伝説の書を受け取る玄功。その肩にそっと手を置く智永。玄功の肩には、温かく、そして慈しむような熱が伝わった。
「それ、行け! もはやここに留まる理由などないわ!」
智永に見送られながら、四人は春の嵐のごとく永欣寺を駆け出した。
その背に届いたのは、かつてないほど高く、晴れやかな智永の高笑いだった。




