伝説の真筆
「どこがじゃ、言うてみぃ!」
智永の声が、静まり返った閣内に響いた。その瞳は明らかに動揺に揺れている。
「『川流不息、淵澄取暎』……ここだけ、運筆の呼吸が乱れている」
「…………」
玄功が指さした文字を、智永が食い入るように覗き込む。
「……うぬぬ、ばれたか!」
刹那、智永はカッカと高笑いし、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「いやはや、お主、なかなかの目を持っておるの。実はな、そこを書いているときに茶をこぼしそうになってな。集中が途切れたところを突かれるとは……。よし、分かった」
智永は潔くその巻物を片付けると、鋭い眼光で玄功を見据えた。
「さて、こちらが儂の『本物』じゃ」
新たに広げられた巻物。それを見た瞬間、玄功の肌にぴりりとした緊張が走る。
「……流石です。一点の迷いもなく、柔和にして淀みがない。これこそが王羲之の正統……」
「うむうむ、よく分かっておるのぅ。さて、どうしたものかのぉ……」
気を良くした智永は腕を組み、ふんふんと悩み始めた。
「どうした老師。新しい茶でも持ってこさせようか?」
阿成が空気を読まずに呟く。
「阿呆、茶などよいわ! ……小僧、見たいか?」
智永がボソリと玄功に問うた。
「見たい!」
なぜか阿成が即答する。智永は苦笑いしながら立ち上がった。
「仕方ないのぅ。特別じゃぞ、本当に特別じゃからな!」
上機嫌になった智永は、書棚の奥深くから重厚な木箱を恭しく取り出した。蓋を開け、現れた巻物を頭上へと掲げて一礼する。その所作には、先ほどまでの軽妙さは微塵もなかった。
「我が祖、王羲之が真筆――『蘭亭序』じゃ!」
(……来た。俺の、書の原点!)
玄功の顔に、隠しようのない歓喜が広がる。それを見た智永も、誇らしげに鼻を鳴らした。
「特別じゃ。失敗作を見て褒めそやすようなボンクラには、逆立ちしても見せん。じゃがお主は、奴らとは違うようじゃからな」
智永の手によって、現世ではもはや伝説と化した「至高の美」が、卓上に静かに解き放たれた。
*****
玄功の目の前に、前世で幾万回と観察し、臨書し続けたあの伝説の書が広がっている。
「……素晴らしい。俺が見ていたものは、一体何だったんだ」
目頭が熱くなり、溢れる涙にも気づかぬほど玄功は昂ぶっていた。彼は衝動的に机上の紙と筆を掴むと、その熱をぶつけるように、一気呵成に臨書を始めた。
「おい、玄功……!」
阿成が声を上げたが、すぐに言葉を呑み込んだ。目の前の男は、自分の知る玄功ではない。書への凄まじい執着を滾らせるその姿は、あの欧陽詢そのものだった。
そして、誰あろう智永もまた、釘付けになっていた。
(こやつ……まるで『蘭亭』の運筆を、最初から知っているかのような……。迷いがない。筆致、気脈、余白の捉え方まで、すべて儂と同様、いやそれ以上か!)
智永は驚愕を押し殺しながら、玄功の筆先を食い入るように見つめる。旻もまた、場を支配するただならぬ緊張感に、思わず無言で手を合わせ、その所作を見守った。
どれほどの時間が流れただろうか。
「……できた」
玄功の呟きとともに、周囲の者たちが一斉に息を吐いた。まるで今まで、呼吸を忘れていたかのように。
「はぁ、はぁ……小僧、お主何者じゃ。ただの使いの者ではあるまい」
「私は……欧陽詢の弟子です」
「なに、あの欧陽詢か! お主、あんな奴の弟子など辞めて、儂の弟子になれ! なあ、そうせい!」
智永が強引に玄功の腕を引く。
「いや、そういうわけには……」
急展開にオロオロする玄功だったが、阿成が横から口を出した。
「老師、そりゃ無理だぜ。俺たち、旦那様には世話になりっぱなしなんだ。なあ、玄功?」
「……ああ、まあな」
「そうですよ。こうして反乱が起きる前に、私たちを逃がしてくださったのですから……」
旻が、うっかりと重大な一言を漏らした。
「反乱じゃと? どういうことじゃ。詳しく言ってみぃ、そこの坊主!」
智永の眼光が、鋭く旻を射抜く。
玄功と阿成は、「ああ、やりやがった……」と言わんばかりに顔を覆った。旻はハッと口を押さえたが、時すでに遅い。智永から放たれる、隠者とは思えぬ威圧感に屈せざるを得なかった。
*****
「なるほどのぅ。そういうことじゃったか」
智永は深く頷き、妙に得心した様子で言葉を継いだ。
「最近は王羲之の書風を逸脱した、まがい物の書が横行して久しい。お主の師、欧陽詢もその一人じゃ。じゃが儂は、あやつを少し誤解しておったのかもしれんな」
「誤解……とは?」
「なんじゃ、お主ら気づかなかったのか?」
智永の問いに、玄功たちは顔を見合わせた。
「……何のことでしょうか」
「これぁ、欧陽殿も苦労しそうじゃな。いいか、お主らを救うために、欧陽詢は自らの命を捨てる覚悟なのよ」
今まで考えもしなかった智永の指摘に、玄功の呼吸が止まる。
「真に悪知恵ある者なら、自らも逃げる算段を立てるはず。じゃが、かの者はそうせなんだ。そしてお前らにその箱を託した。……中身は見たのか?」
「いえ、虞世南様からも『見るな』と固く禁じられておりますので……」
「どうせ追手から逃げ回る身じゃ、今さら開けたところで罰は当たらん。いずれ開ける日が来るのなら、早いか遅いかの違いよ。それを見れば、師らが何を企んでおるのかも分かるじゃろうて」
三人が顔を見合わせる。阿成が、真っ先に口を開いた。
「俺は老師の言う通りだと思うぜ。見たところで、減るもんじゃなし」
「……いや、ですが……」
旻が躊躇うように声を出すと、智永が即座に一喝した。
「坊主は黙っとれ! 余計な口を挟むな!」
叱られてシュンとなる旻。最後に玄功が、決意を込めて重い口を開いた。
「……分かりました。大哥、あの箱を持ってきてくれるか」
「ああ、任せておけ」
阿成が勢いよく立ち上がり、部屋を出た。やがて戻ってきた彼の腕には、あの重厚な箱が抱えられていた。
「では、開けます……」
玄功が重々しく蓋を持ち上げると、中には絹の袋が収められていた。震える手で袋を解き、黄色の絹で作られた巻物を取り出して、卓上に広げる。
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「こ、これは、とんでもないものじゃ……」
口火を切った智永自身が、その光景に驚愕していた。
「こりゃあ、紛れもない『勅書』。玉璽が押されておる。……だが、文言が何一つ書かれておらん!」
(クソ爺……あんた、一体何をさせるつもりなんだ……)
固まる一同が欧陽詢と虞世南の意思を図りかねていた。ただ一人智永だけを除き。




