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江南の迷僧

 西暦六一八年、二月二十五日の朝。

 玄功ら三人の一行は、南へと馬の鼻を向け、春の風を切り裂いて駆けた。


「おっ、長江ちょうこうが見えたぜ! で、玄功。どうやって向こう側に渡るんだ? このご時世、軍の検問は厳しいって話だぜ」


「これを使うのさ」


 玄功は懐から、鈍く光る銀菟ぎんとを取り出してみせた。


「へぇ……。それがあれば船まで動かせるのかよ」


「まあ、見ててよ」


  一行は、武装した兵士たちが鋭い眼光を光らせる渡口へと足を踏み入れた。


「そこの者、止まれ! 何用だ!」


 即座に槍を構えた兵士たちが、玄功らを取り囲む。玄功は臆することなく、右手に持った銀菟を高らかに掲げた。


「これを見よ。我らはちょくを受け、これより急ぎ会稽かいけいへと向かう。邪魔立ては許さぬ!」


「し、しばらくお待ちください! おい、誰か上官を呼んで来い!」


 やがて、鎧の音を響かせて一人の若い武官がやってきた。


「ん? 急いで来てみれば……貴殿か。妙に縁があるな。で、今度はどこへ行くんだ?」


 親しげに語りかけてきたのは、かつて武関ぶかんで知り合った校尉であった。


(あっ……あの時の。今度は下手は打てないな……)


 虞校尉は手際よく銀菟を確認すると、それを玄功の手元へ返した。


「あの折はありがとうございました。虞著作郎【虞世南】のご親族とは知らず、失礼をいたしました」


「ははは、気にするな。それで、世南様にはお会いできたのか?」


「はい。おかげさまで、こうして使者としての重責を任されました」


「そうか、なら良かった。あの詩を見せれば、そうなるだろうと思っていたよ」


 再会の喜びを交わす二人。しかし、虞校尉の瞳には、かつて出会った時とは違う、どこか沈んだ影があるのを玄功は見逃さなかった。長江を渡った先は、もはや隋の支配が揺らぐ「他国」に等しいのだ。


「では、気を付けて行かれよ。道中の無事を祈っている。……おい、誰か船を出せ!」


 懐かしい出会いを背に、一行は荒れ狂う長江の流れを渡りきった。

 再び陸路へと入り、馬を急がせる。道中の一夜を宿で過ごし、目的地、会稽かいけいの地までは、あともう一息というところまで進んだ。


*****


「おや、あれは……?」


 珍しく旻が、彼方に見える石橋を指して呟いた。


「いかん! あれは身投げですぞ。玄功殿、急いで助けてくだされ!」


 旻の叫び声に、玄功の血の気が引いた。咄嗟に馬の腹を蹴り、馬速を上げる。


「老師、危ない!」


 橋の手前で急停止させると、玄功は鞍から飛び降り、そのままの勢いで欄干へと飛びついた。今まさに身を乗り出そうとしていた老僧の腰を、背後からがっしりと抱きかかえる。


「大丈夫ですか!」


 一瞬の出来事に、老僧は目を白黒させて固まった。


「……お、お主、いきなり何をするんじゃ?」


「何って、あなたが今ここから身を投げようと……」


 そこまで言いかけて、玄功は橋の下を覗き込んだ。そこには激流どころか川すらなく、高さも人の背丈ほど。さらには橋の下は一面の柔らかな草むらになっている。


「……あ、あれ? 身投げ……じゃなかった?」


 玄功がバツが悪そうに手を放すと、老僧は袴の埃を払いながら豪快に笑い出した。


「カッカッカ! お主、ここの者ではないな。ここはただの飾りの橋よ」


「飾り……?」


「そうじゃ。ここで先祖を偲ぶのが儂の決まりでな。それにしても見かけによらず、なかなかの慌て者じゃて。ハッハッハ!」


 老僧の屈託のない笑い声が響く。玄功は恥ずかしさで顔を赤くしながらも、背後からトボトボとやってきた旻に鋭い視線を向けた。


「……旻殿。どういうことですか、これは」


「あっ、いや……。あまりに深く瞑想されていたので、つい。ハハ……ハハハ……」


 旻はあさっての方を向き、弱々しく笑って誤魔化している。


 その様子を見ていた老僧は、さらに愉快そうに目を細めた。


「お主ら、最近流行りの賊ではなさそうじゃな。ちょうどよい、儂の話し相手に少し付き合え」


 断る間もなく、老僧は阿成の馬にひょいと跨った。

 玄功はその手綱を引き、老僧が隠居しているという寺へと導かれることになったのである。


*****


「おい爺さん、こりゃまた頑丈そうな門じゃねーか!」


 玄功が門の敷居しきいを小突くと、鈍い金属音が響いた。


「おい、これ鉄か?」


「おぅ、そうじゃよ。めんどくさい客がわんさか押し寄せてな。敷居が踏み潰されんよう、鉄板を張っておいたのよ。カッカッ」


 軽妙に笑う老僧に連れられ、山門を抜ける一行。そこへ若い修行僧が駆け寄ってきた。


「師匠、こちらはお客様で?」


「おぅ、客人じゃ。奥へ通すぞ」


「おっ、奥……あそこ(閣上)でございますか? 承知しました!」


 僧は驚いた顔で一礼し、寺の奥へと走り去った。


「じきに茶も届こう。お主ら、この辺りで採れる茶を飲んだことはあるか?」


「俺はねぇよ! 苦い薬みたいなもんだろ?」


「ほう、そうか。なら楽しみにしておれ。ここは銘茶の産地でな。……カッカッ」


 案内されたのは、永欣寺の奥深く、静謐な空気が漂う一室だった。部屋の中央には巨大な書卓(机)があり、そこには書きかけの紙が広げられている。

 玄功がふとその紙に目を止めた瞬間、心臓が跳ねた。


「こ、これは……!」


「なんじゃ、お前さんも見覚えがあるのか?」


「……真草しんそう千字文!」


「いかにも。まだ書きかけの『真』、楷書の段じゃがな」


「では、老師は……あの智永法師か!」


「なんじゃ、名乗る前にバレたか。……つまらんなぁ」


 残念そうに肩をすくめる智永。だが、玄功はもはや言葉も耳に入らない様子で、紙に躍る墨痕を食い入るように見つめている。


「……」


「どうした?」


 智永が面白そうに覗き込む。沈黙を破り、玄功の口から飛び出したのは、予想だにしない言葉だった。


「――この字、甘いな」


 ガシャーン!


 茶碗を運んできた僧の手から盆が滑り落ち、顔面が蒼白になる。


「なっ……どこがじゃと言うのだ!」


 智永の目が一瞬で鋭くなり、部屋の空気が凍りついた。


「あーあ、せっかくの茶が台無しじゃねーか……」


 ただ一人、この場に漂う殺気などどこ吹く風の男を除いて。


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