密議の後
時は夜。すでに老境に至っている男が二人、対峙していた。一人は欧陽詢、そしてもう一人は、彼と並び称される文官・虞世南である。
「詢殿、こんな夜分に何用ですかな?」
「申し訳ない。早急に貴殿とお話ししたきことがありましてな」
「ほう。それは?」
「極秘のことなれば……お人払いを」
欧陽詢の眼光は、いつになく鋭く、そして真剣であった。それを汲み取った虞世南は、傍らの家人らに一瞥を送る。察した家人らは主に一礼し、静かに部屋を退出した。
「……これでよろしいかな?」
「実はな……」
欧陽詢は、旻から聞いた「近衛兵の謀反」の企てを、かろうじて聞こえるほどの小声で伝えた。虞世南の顔が瞬時に険しくなる。
「――! それはまずい。直ちに陛下に奏上せねば!」
立ち上がろうとする虞世南を、欧陽詢は力強く制した。
「お待ちくだされ、世南殿!」
慌てる世南とは対照的に、欧陽詢の声は低く、そして冷徹なまでに冷静であった。
「貴殿もとっくに承知のはずじゃ。隋(この国)はもう持たぬ……。我らはこの国の官吏。本来であれば、この運命に殉じるほかない身だ」
普段の血気盛んな「雷親父」とは似つかわしくない、死を覚悟した者の静寂を欧陽詢は纏っていた。
「詢殿、それは……どういう意味ですかな?」
「我らは『新たな息吹』を知った。……あやつは、我らの知らぬ理を持つ者。いつまでも我らのような旧き者が居座っていては、あの若者が真に世に出ることはあるまいよ」
欧陽詢の言葉に、虞世南はハッとして息を呑んだ。脳裏に、あの若き異邦人・玄功の姿が浮かぶ。
「……つまり?」
「我らはこの動乱の中で果てるやもしれぬ。じゃが、大事なのは我らの思いを、その息吹を引き継げる者に託すこと。そうではあるまいか、のう、世南殿」
「……」
虞世南はただ静かに目を閉じ、深い沈黙に沈んだ。やがて、覚悟を決めたように目を見開く。
「貴殿のお考え、確かに承りました。私もこの国の末席を汚す者。覚悟において、貴殿に遅れを取るつもりはありませぬ」
「そこでじゃ……。貴殿にはやってもらいたいことがある!」
かくして、滅びゆく帝国の片隅で、二人の老官吏による秘策が練られ始めた。
*****
こうして数日が過ぎた、ある深夜。江都の欧陽邸に、ひっそりと一人の来客があった。
「玄功をこれへ」
欧陽詢の声に呼ばれ、玄功は深夜にも関わらず、ただならぬ気配を感じて師匠の書斎へと急いだ。
「お呼びにより参上し……。あれ、虞世南様も?」
「玄功殿。深夜に呼び立ててしまい、申し訳ない」
虞世南はいつものように君子然とした穏やかな挨拶を返したが、その瞳には隠しきれない緊張が宿っていた。欧陽詢がそれを遮るように口を開く。
「挨拶はもうよい。それよりも玄功、お主にこれを託す。直ちに、これより長安を目指せ!」
欧陽詢が差し出したのは、鈍く輝く兔の形をした符であった。
「師匠、これは……?」
「それは『銀菟』という。これを所持する者は、隋の全土にある駅を用いることができる。つまり――」
「早馬での移動を、帝国が公式に認めているという証です」
虞世南が言葉を付け加えた。それは一介の官吏や留学生が手にできる代物ではなかった。
「明朝には長安へ向け出立せよ。朝には旻もこちらへ来る。かの者も同行させ、一刻も早くここを離れるのじゃ。よいな!」
有無を言わせぬ欧陽詢の剣幕。すると、虞世南がさらに重厚な装飾の施された木箱を差し出した。
「玄功殿。もし万が一、緊急を要する事態に陥ったなら、この箱を開けてください。すべての指示は中の書簡に記してあります。それまでは、決して開けてはなりませぬよ」
「は……、はい。承知いたしました」
玄功は、手渡された銀菟の冷たさと木箱の重みに、言いようのない不安を覚えながら部屋を退出した。
そして、朝を迎えた。
*****
「おい、玄功。その坊主はまだか?」
「そろそろだと思うんだけど……。あっ、来た!」
屋敷の玄関で待ち構えていた玄功と阿成は、通りの向こうから歩いてくる僧侶の姿を見つけ、大きく手を振った。
「お待たせしました。太常寺より欧陽邸へ向かうようにと沙汰があり参ったのですが、本日は何用でございましょうか?」
どこか能天気な旻の問いに、玄功と阿成は顔を見合わせた。
「……旻様、何も聞いていないのですか?」
「何も? ええ、何も。……何かございましたか?」
玄功は溜息をつき、昨夜、欧陽詢から命じられたことを手短に説明した。
「……はっ!? い、今からこれより出発!? 長安へ!?」
「そうです。さあ、行くよ!」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まる旻を、玄功と阿成は左右から無理やり引きずるようにして、江都の玄武門へと連れ立ったのであった。
*****
江都の玄武門では、兵部の官吏たちが各地へ派遣される伝令のため、次々と馬をあてがっていた。
「では、この馬を用いられよ」
「承知。では、失礼いたす!」
官吏から手綱を受け取った伝令が、颯爽と門を潜り、目的地へと駆け出していく。その様子を眺めていた阿成が、感心したように声を上げた。
「さすがは大隋帝国だなぁ。立派な馬があれだけわんさか用意されてやがるぜ!」
「大哥、なんだか嬉しそうじゃないか」
「ああ、久々に馬に乗れるからな! ……で、あんたは馬に乗れるのか?」
阿成は、まだ戸惑いの色が隠せない旻に視線を向けた。
「ええ、まあ……これでも故郷ではそれなりに嗜んでおりましたが……。ただ、隋の馬は我が国の馬よりも馬体がひと回り大きいので、少々圧倒されますな」
「へぇ、まあ気にするなって。すぐに慣れるさ!」
カッカと高笑いする阿成。そんな二人をよそに、玄功は兵部の官吏に陽詢から託された銀菟を提示した。官吏の顔つきが、即座に敬意を帯びたものに変わる。
「……確かに拝見した。では、貴殿らにはこちらの三頭を貸与する。行く先の駅でも同様にこの符を見せれば、新しい馬と交換できるはずだ。道中の無事を!」
「ありがとうございます」
玄功が手綱を握り、馬の腹を蹴る。
「よし、行くぞ!」
かくして、三人の一行は一路、南の江南方面へと向けて馬を走らせた。背後に残る江都の街が、朝靄の中で静かに遠ざかっていった。




