倭国からの国書
「すまなかった!」
旻は玄功を前にして床に額をこすりつけ、土下座した。
(うわぁ……土下座なんて久々に見たわ……)
「いえいえ、どうせ父があなたに何かしたのでしょうし……。誤解が解けて良かったと思うようにします。死にかけましたが……」
「そう言ってくれると助かる」
「で、なぜそこまで父を目の敵に?」
「そ、それは……」
(あぁ……こりゃとんでもないことだぞ、絶対……)
「今の私は官吏としてではなく、橘逸人の実子としてここに来ています。他言はしません」
「ん? 官吏……?」
いぶかしがる旻に、玄功が告身(辞令)を見せると、旻は電光石火のごとく再び頭を床に叩きつけた。
「官吏に対し暴行を加えるなど……。これでは死罪すら免れませぬ。平に、平にご容赦を……!」
(この人、こんな人だったんだ……歴史上の偉人ってもっとこう、どっしり構えてるもんだと思ってたのに)
玄功は、想像とあまりに違う「偉人」の姿に、乾いた笑いしか出なかった。玄功が平伏する旻をようやく宥めると、旻は重い口を開き、逸人との因縁を話し始めた。
事の発端は、遣隋使として派遣される前。まだ逸人が厩戸皇子と関わっていた頃まで遡る。
二人は同じ「橘の宮」で過ごした幼なじみであった。しかし、かたや皇族、一方は下級官吏の子。本来であれば言葉を交わすことすら叶わぬ身分の隔たりがある。だが、厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女が奔放な方で、身分の差など意に介さぬ性格であった。その影響か、厩戸皇子もまた逸人と友人のような関係を保ったまま成人したのである。
やがて厩戸皇子が摂政になり、冠位十二階や憲法十七条の制定など、次々と国家の礎となる政策を打ち出した。
「……その陰には常に逸人殿がおった」
旻は低く言った。
「だがその存在は、保守の豪族にとっては毒だ。奴らは遣隋使の名目で、あやつを皇子から遠ざけた」
(クソ親父……放蕩じゃなく、追放かよ)
「問題は、そこからなのだ」
旻の喉が鳴った。
「貴殿も知っておろう。あの隋への国書の文を」
「……『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す』」
「しかり、……だが、厩戸皇子の国書の文はそれとはまったく違っていた」
「それを――逸人殿が書き換えた」
玄功の耳鳴りがした。
「えっ……書き換えた!?」
「さよう! おかげで皇帝の逆鱗に触れ、小野妹子様はあわや処刑というところまで追い詰められたのだぞ!」
(クソ親父……)
それしか、言葉が浮かばなかった。あの国書は、後の世まで語られるだろう。その裏に父の筆があったなど、誰が想像する。玄功は、深くうなだれた。
「……父が、本当に申し訳ございませんでした……」
「なに、貴殿が謝ることではない。貴殿に罪はないのだ……」
こうして久方の同郷同士、ある意味で濃すぎる積もる話を交わし、この日は更けていった。
翌日。昨夜の寝不足を引きずりながら、朝は師匠の手伝い。そして午後からは阿成を伴って乗馬の練習と、打って変わって平穏な時間がしばらくは続いた。
しかし……
西暦六一七年十一月末。北の要衝・長安が李淵の手によって陥落した。
隋の命運が尽きかけていることは、誰の目にも明らかだった。しかし、ここ江都では、煬帝をはじめとする貴族たちが現実から目を背けるように、連日連夜、狂ったような酒宴に溺れていた。滅びの足音が、すぐ背後まで迫っているというのに――。
明けて西暦六一八年、二月の初め。欧陽邸の重い門を叩く者がいた。
「よし、入れ!」
欧陽詢に呼ばれた玄功が書斎へ入ると、そこには青ざめた顔で立ち尽くす旻がいた。
「お、欧陽先生……玄功殿。突然の訪問、お許しくだされ」
「私に何かご用が?」
「……実は……」
旻は、落ち着きなく陽詢の顔を窺った。
「なんじゃ。儂がおっては、よほど都合の悪い話か?」
「いえ……そ、そのような……」
旻のあまりの動揺に、欧陽詢の堪忍袋の緒が切れた。
「たわけがぁ! ここの主は儂じゃ。自らを偽るがお主の仏道か、吐けッ!」
雷鳴のような一喝に、旻は膝をついて縮み上がった。
「し、師匠……! 相手は僧侶です、少しは加減してください」
(このじじい、人を叱り飛ばすときは本当に元気に見えるな……)
玄功が間に入ってなだめると、欧陽詢は「フンッ」と鼻を鳴らして椅子に深く腰掛けた。
「……申し訳ありません。お話しします。昨夜、私が宮城の隅で聞いてしまった、恐ろしい企てを」
震える声で、旻は語り始めた。
*****
冬の夜気。江都の宮殿を警護する近衛兵たちが、篝火の影でひそひそと囁き合っていた。
「……長安は落ち、関中(故郷)は李淵の手に落ちた。俺たちの親兄弟はどうなったと思う?」
「文を出しても、返事はない。当たり前だ。この江都は、もはや陸の孤島だ」
兵士たちの瞳には、絶望と、その裏返しの怒りが宿っていた。
「主上は、帰る気などないのだ。このままここで、俺たちを道連れに心中するつもりだぞ」
「冗談じゃない! 俺たちが何のために命を預けたと思っている!」
「静かに! 誰かに聞かれたら首が飛ぶぞ」
一人が慌てて制するが、火のついた感情は止まらない。
「……なぁ。故郷へ帰る方法は、一つしかないと思わないか?」
「お前……まさか……」
「俺たちの未来は、俺たちの手で掴み取るしかないんだ……」
*****
「……それ以上は恐ろしくて聞けませんでした。ですが、あれは間違いなく、帝への謀反の相談です。これを公的な場に通報すれば、倭国の学僧である私は虚言の罪で処断され……」
「倭国に帰る道も、永遠に閉ざされる。……そう言いたいのだな」
玄功の言葉に、旻は絞り出すような声で「左様でございます」と頷いた。書斎に、重苦しい沈黙が流れる。
「うむぅ……。旻よ、この話はここで捨て置け。二度と口にするな。……お主の首が繋がっているうちに、慧日道場へ戻れ」
「は、はい……!」
旻が逃げるように去った後、欧陽詢は立ち上がり、壁に掛けられた一本の剣を手に取った。
「師匠……どこへ行くつもりですか?」
欧陽詢は答えず、玄功の肩に強く手を置いた。その眼は、いつになく真剣だった。
「よいか。この江都はまもなく血の海になる。……逃げる準備をしておけ」
欧陽詢はそれだけ言い残すと、夕闇の中へと消えていった。




