同郷の友
翌日になり、屋敷内での玄功の扱いが一気に変わった。今までは同じ家人同然であった人たちが急に改まったのだ。ただ一人を除き。
「おう玄功。お前とうとう官吏様になったってな!」
「大哥……、俺これからどうなるんだ?」
「そうさな、ふんぞり返って俺たち民を虐げてみるか?」
「馬鹿言うなよ! 俺がそんな奴に見えるか?」
「いいや、見えねぇよ」
笑いあう二人。
「だがよ、官吏になるってーのはそういうことなんだぜ……俺たち民にとってはよ」
阿成の言葉に、一瞬だけ陽光が遮られたような気がした。昨日まで隣で泥にまみれていた兄貴分との間に、目に見えない、けれど絶対的な「境界」が引かれたような――そんな寒気に似た隙間だ。
だが、阿成はすぐにニカッと破顔した。
「ま、お前がそんな馬鹿になったら俺がブチのめして止めてやるから安心しな」
「からかうなよ……。俺はそんな馬鹿にはならないって!」
阿成はいつものように玄功の頭を強く撫でまわし、そして二人はいつものように朝食をとった。
*****
「師匠。お願いがあるのですが……」
「なんじゃ?」
「実はあの(クソ)親父に頼まれたことがありまして……」
「だからなんじゃ!」
「同じ遣隋使として派遣された人のことを頼まれまして……」
「ふむ、そういうことか。ならはようそういわんか、馬鹿者!」
欧陽詢のいつもの口調に四苦八苦しながら、玄功は逸人からの話を欧陽詢にした。
*****
あれは、長安から出立する二日前のこと……。
「おう、旅の準備はできたか?」
「なんだクソ親父。何しに来た? もう金を使い果たして無心にでもきたのか?」
「なんだわかってんじゃーねーか、ほれ」
逸人は右手を出し、催促するしぐさをした。
「お前にはこれで十分だろうぜ」
玄功は、持っていた使い果たして小さくなった墨のかけらを逸人の手のひらに置いた。
「おいおい、随分とドス黒いお気持ちだこと……。まぁそれはさておきだ。実は頼みたいことがある」
いつになく真剣な顔をする逸人。
「なっ……なんだよ(気持ちわるいな……)」
「実はな、俺と一緒に隋に来た二人がまだこっちにいるはずなんだがな。名前は、高向玄理と僧の旻ってやつさ」
(でた!……教科書に載ってるやつ!)
「で、どうしたらいいんだ?」
「このご時世だろ? あいつらにそれとなく手を貸してやってほしいんだよ……。あいつらも、この荒れ果てた大陸で死ぬには惜しい奴らでな」
ろくでなしの親父が見せた、一瞬の「同郷の友」を想う顔。玄功は、渡された使い古しの墨を握りしめた。
「俺にそれができるか?」
「まぁお前には無理だろうからさ、あの欧陽のじーさんにそれとなく頼んでほしいんだよ。まぁ口説き文句はさ、……」
「それでうまくいくか?」
「まぁ、やってみろって!」
*****
「とまぁ、あのクソ親父が言うには、倭国にはこちらとは異なる独自の書の理があるようでして……師匠ならそれを見抜けるのではないか、と」
「ほう……」
欧陽詢が短く応じた。その反応を見て、玄功は言葉を継いだ。
「――とまぁ、あいつが最後にそんな殊勝なことを抜かしたわけです」
欧陽詢の眼光が、獲物を狙う鷹のように鋭さを増した。嘘か真か測りかねているようだが、その好奇心には抗えない。それが「書狂」欧陽詢という男だ。
「ふむぅ……。まぁそういうことならよかろう。確か学僧らは慧日道場におったはずじゃ。まぁとにかく、謁見の折の礼式について聞きたいことがある、とでもいえばよかろう」
こうして、玄功は欧陽詢の許しを得て、江都中央にあるその寺院に向かった。
*****
慧日道場の前、門前には警備の兵が二人、門を挟んで立っていた。
「すみません。私は太常寺から参りました。こちらの旻という僧侶に話を伺いたく」
「なに? お前が太常寺の官吏?」
二人の兵士が顔を見合わせ、うすら笑いを浮かべる。
「どうぞ、これをご覧ください」
玄功は、虞世南からもらった告身を兵士に見せた。
「ほ、本当か! ……従九品下、確かに。いや、これは失礼いたした」
兵士の顔から「うすら笑い」が消え、慌てて背筋を伸ばし、槍を握り直す。九歳の子供に対して、大人の武人が明確に「格下」として振る舞う。その異様な光景に、玄功は背筋がむず痒くなるのを感じた。
「欧陽詢太常博士の命です。遣隋使が陛下に謁見した際の式礼に関し、確認したいことがあり派遣されました」
「な、なるほど。どうぞお通り下され……」
(ふっ……よし!)
丁重に礼をされ中へと進む玄功。寺の中にいた僧の一人に案内され、目的の人物――旻のもとへと導かれた。
*****
静かな部屋。その中で一心不乱に経典に目を通している僧が一人いた。
「旻殿、お客人ですぞ」
「はて、どなたで?」
旻が振り返ると、そこには見目麗しい少年が立っていた。
「君は誰です? 君のような少年がいったい私に……」
「初めまして、旻殿。私は橘玄功――」
その瞬間、旻が持っていた経典が床に落ちた。乾いた音が響くよりも早く、彼は弾かれたように立ち上がった。
「今、橘と申したか……ッ!」
静謐な僧の空気が一変し、獣のような殺気が部屋に満ちる。
「貴様、何者だ! なぜその姓を名乗る!」
玄功の胸ぐらを掴み、そのまま壁際まで押し上げる旻。
(あれ……感動の再会とか、同郷のよしみとか……そういうのは無し!?)
足が宙に浮き、喉が締まる。旻の血走った眼差しに、玄功は戦慄した。
(あのクソ親父、この人たちに一体何をしでかしたんだ……!)
そう思いながら、この絶体絶命の場をどう切り抜けるべきか、玄功は必死に思案を巡らせるのだった。




