異聞の書
「欧陽太常はおられるか!」
「ど、どちら様で?」
「私は虞世南と申す。急ぎの用だ、取り次がれよ」
「は、は……。ですが、主はただいま陛下より謹慎を申し渡されておりますれば……」
「これを見よ。陛下からの勅命である!」
「ハッ、ただちに!」
家人が慌てて奥へ走る。しばらくして、身なりを整えた欧陽詢が虞世南の前に跪いた。
「臣、欧陽詢、拝命いたします」
「勅である。本日をもって謹慎を解く。ただし、当面の出仕には及ばず。以上」
「ははぁ……」
恭しく勅状を受け取った欧陽詢は、それを頭上に掲げて拝礼した後、ふうと息を吐いて立ち上がると、親しき友に向ける顔に戻った。
「……で、虞殿。何用かな? わざわざ陛下を動かしてまで。」
「すまぬな、詢殿。こうでもせねば、謹慎中の貴殿とは話もできぬ。取り急ぎ陛下に奏上し、許しを得たのだ」
「ふむ……。詳しい話は奥で。ささ、こちらへ」
こうして当代の二大書家は、人目を忍ぶ奥まった一室で密談を始めた。
「詢殿にお尋ねする。貴殿には弟子がおいでだろう」
「弟子……? ああ、長安に一人おりますな」
「その者が、今こちらに向かっているようだ」
「なに! なぜそのような無謀な真似を……」
「貴殿の命を受けたと言い張っているようだが……。まあ、それはよい。これを見よ! 武関でその弟子が書いたものだ!」
興奮を隠せぬ虞世南が、一枚の紙を欧陽詢に差し出す。欧陽詢の目が鋭く光った。
(……儂の書風を模してはいるが、この筆運びは確かにあ奴のものだ)
「……間違いありません。弟子の字ですな」
「いや、書の話ではない。その『詩』だ。五言の律【律詩】として一点の隙もなく、それでいて万巻の書を読み耽った老練な文士のような哀愁がある。余人に渡すには惜しすぎる……」
鼻息を荒くする虞世南に対し、欧陽詢は困り果てたように首を振った。
「……それは叶いますまい」
「なぜだ! なぜそう断じる!」
「あ奴はまだ、十歳になったばかりの童にございます。秘書省への出仕はおろか、官位を授かることすら叶わぬでしょう。……何せ、元は名もなき貧民の出ですからな」
「な、なんだと……!? では、なぜあのような名文が書けるのだ」
「それは……」
欧陽詢は、玄功の数奇な素性を、差し障りのない範囲で虞世南に明かした。
「なるほど……。しかし、それほどの才を埋もれさせるのは国の損失だ」
(ふむ。確かに、あの童に何らかの盾――を与えておくのも悪くないかもしれんな……)
欧陽詢は虞世南を見据え、ある提案を持ちかけるのであった。
*****
時は戻り――欧陽詢が玄功の耳元でささやいたその後、
「この話はこれまで。決して他言するな――お前のためじゃ」
「は、はい。(……そりゃそうだろ……命がいくつあっても足りねぇ……)」
「おぅ、そうじゃ。二日後来客がある。お前にも用があるから控えておれ。わかったな」
こうして、欧陽詢の陰謀を聞かされた玄功は消化しきれない思いを抱きながら書斎を去った。
そして二日後、
「お客様が来られました」
「うむ、お通しせよ」
書斎で待つ玄功の眼前に、一人の男が入ってきた。身なりは整い、その立ち居振る舞いは水が流れるように自然で、周囲の空気を穏やかに変えてしまうような不思議な品格を纏っている。
「お初にお目にかかる。我が名は虞世南と申す。隋の秘書省にて著作郎の末席を汚しております。以後、見知りおきくだされ」
(……! 師匠の次は虞世南か!)
玄功は当代の書の巨人の名を改めて聞くことになった。
「はっ初めまして。高官である虞様の前で失礼いたします。私は橘玄功と申します」
動揺を隠しきれず、あたふたする玄功。
「どうか気になさいますな。それよりも貴殿が書かれたこの詩、拝見いたしました。この詩のあまりの出来栄えに貴殿に会いに来た次第です」
「……?さて、そのようなこと身に覚えがございませんが……」
「ほれ、この詩じゃよ」
虞世南がそういうと、袖の中から一枚の紙を取り出して玄功に見せた。
(……! しまった、あの時、勢いで書いちまったやつか!)
玄功の脳裏に、武関で兵士を黙らせるために披露した前世の有名詩が浮かぶ。
(現代なら「パクリ」で済むが、この時代、このレベルの詩を九歳の子供が書くのは、神童を通り越して化け物扱いだぞ……!)
背中に嫌な汗が伝うのを感じながら、玄功は必死に表情を取り繕った。
「あっ……これは武関で……」
「そうじゃ。あの校尉は儂の遠縁の者でな。その出来栄えのすばらしさに手紙をよこしたのじゃ。それで儂はこうして貴殿に会いに来ておる」
バレないだろう、と安易に前世の知識を使ったことを猛烈に後悔しながら背筋に汗を流す玄功。すると欧陽詢が、
「虞殿と相談してお前に官位を与えようということになった」
「はい?」
「私としては、今すぐにでも秘書省に迎えたいところなのじゃが……さすがに貴殿の年齢がのぅ。そこで太常寺であれば、貴殿と同じ年頃の者も多くおるということでな。一旦、太常寺付きということで欧陽太常と話を付けた。官位は従九品下じゃ。……そして、これがその証である告身じゃ」
「ほれ、貰っておけ」
「は、はぁ……」
片膝を付き、恭しくその告身を頂く玄功。
「さて、童。いっちょ前に官位ある身分になった訳じゃが……。お前、馬に乗れるようにしておけよ」
「は、はぁ……」
意味が分からぬままトントン拍子で話が進み混乱する玄功は、そのまま書斎から退出した。
*****
玄功が去った後、書斎には欧陽詢と虞世南の二人だけが残された。
「確かに、詢殿が言われるように不思議な少年ですな」
「普段はそこらにいる子供と同じですがな。じゃが……」
欧陽詢は、机の上に置いてある一枚の紙を虞世南に差し出した。
「ご覧くだされ。あやつに書かせた字です」
「字……ですか」
まじまじと書かれた文字を見つめる虞世南。……その眼差しが、瞬時に鋭くなった。
「……この違和感。これは我々が尊ぶ『天然の妙』ではない。あまりに理に過ぎている。作為が極まり、もはや自然を超えてしまっているように見えます」
「左様。我々が筆勢の赴くままに成す文字の骨組み、すなわち結構が根本から異なる。あの童の字は、まるで測量されたかのように左右が整い、上下の均衡が寸分違わず保たれている」
虞世南はしばらくの間、紙を食い入るように見つめ、その指先で空中に軌跡をなぞった。
「……うむ。我々の書は、一画一画が呼応し、危うい均衡の上に成り立つもの。しかし、この少年の字は一点一画が独立し、揺るぎない『法則』に従っておる。……詢殿、これは我々の知らぬ、異界の書を見せられているような心地がいたしますな」
「さすがは虞世南殿、儂と同じ結論じゃ。……そう、ここには我々がまだ辿り着かぬ『理』が潜んでおる」
窓から差し込む夕陽が、机上の文字を赤く染める。この時代を代表する二人の巨人は、ただ一人の少年の筆跡に、未知の時代の到来を予感していた。




