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水上の仙境

「やっと着いたぜ! ほら顔を上げろよ、いつまでクヨクヨしてんだ!」


 航路での多少のトラブルはあったものの、五日ほどで江都こうと近郊の軍港に到着した二人。長安を発って二ヶ月余り、季節は西暦六十七年の十月を迎えようとしていた。長旅を終えた感動に浸る阿成あせいをよそに、玄功げんこうは力なくうなだれている。


(ああ……、せっかく襄陽じょうようまで行ったのに……『堕涙碑だるいひ』拝めなかった……)


「いい加減にしろ、ほら、前を見ろって!」


 阿成が後ろから玄功の両頬を挟み込み、強引に顔を向けさせた。


(……、ん!?)


「まさに絢爛豪華、水上の都。まるで仙人の住む蓬莱ほうらいじゃねえか、なぁ玄功!」


 興奮を隠せない阿成は、玄功の背後で鼻息を荒くしている。


「おっ、あのねーちゃんの衣、あれは呉の最高級の絹だぜ! あっちを見ろ、あの髪飾り……色んなぎょくが散りばめられてやがる!」


「確かに、長安とは空気が違うけど……」


 乱熟と退廃、そしてさまざまな人とモノ、更にはむせかえるほどの淫靡香りが漂う街並み。異様な熱気だが、後世の日本の歓楽街など比べるべくもない、滅びゆく王朝特有の危うい熱狂に、玄功はどこか冷ややかな視線を送っていた。


*****


「いよいよ到着か。長かったなぁ……」


 欧陽詢おうようじゅんの邸宅を前に、阿成が独り言のように漏らした。


「よし、行くか!」


 出迎えた使用人に、長安の家宰・忠衡ちゅうこうから託された手紙を預け、二人は欧陽詢の待つ書斎へと導かれる。


「お連れいたしました」


「入れ!」


 部屋から響いた怒気を含んだ声に、二人の安堵感は一瞬で緊張へと塗り替えられた。


「馬鹿もーーーーーーん! なぜお前たちは江都まで来よった!」


「ハッ、はいぃ!」


 欧陽詢の気迫に圧され、阿成は直立不動のまま硬直した。


「師匠……実は、太原の李淵りえんが長安に侵攻する気配がありまして……いち早くお知らせしようと……」


「大馬鹿者! お前たちが報ぜずとも、そんなことは百も承知だ!」


 あまりの怒りに、机上の木製文鎮を握りしめる欧陽詢。長安の邸での記憶が蘇った玄功は、素早く阿成の背後に身を隠した。その機敏すぎる逃げ足に、欧陽詢は毒気を抜かれたのか、握りしめた文鎮を置くと、がっくりと肩を落とした。


「はぁ……もうよい。まずは休め。玄功、お前は明日またここへ来い」


「ハッ、はい! 失礼します!」


 この時を待っていたとばかりに、二人は逃げるように書斎を後にした。

 二人が書斎から去った後、欧陽詢は忠衡が持たせた一枚の紙を見ていた。


(さすがは忠衡、儂が一番知りたいものを良く分かっておるわ……)


 紙切れを高く掲げ、食い入るように見る欧陽詢。その姿はまさに鬼気迫るものであった。


*****


 翌日の昼過ぎ。玄功は再び、欧陽詢の書斎へと呼び出された。


「で、お主は李淵の動きをどう見ておるのじゃ?」


 欧陽詢は机に向かったまま、顔を上げずに問いかけた。


「はい。長安を攻め、他の反乱に乗じて独立を狙っているのではないかと……」


「ふむ……。それで?」


「はい?」


「『それで』と申したのじゃ。あの男の狙いなど、誰の目にも明らかよ。問題は、我らが何をなすべきか、いや、何ができるというのか――お前はどう考える?」


 不意に鋭い現実を突きつけられ、玄功は答えに窮した。


「どうせなら、長安などくれてやればよいのじゃ。もはや我が隋の力では、止めようもなかろうて……」


 欧陽詢は静かに目を伏せた。その声には、帝国を見限ったような冷たい響きがあった。さらに、彼は言葉を重ねる。


「……して、お前は今後、どうすべきだと思っておる?」


 玄功は言葉の代わりに、懐から王世充に託された手紙を取り出し、欧陽詢の前に差し出した。欧陽詢は無言でそれを受け取ると、中身を一読し、


「……なるほどな」


 、と小さく呟いた。すると次の瞬間、彼は傍らの手鉢へ、その手紙を迷わず投げ入れた。炎が立ち上がり、紙が灰へと変わっていく。


「ああっ、何を……この(クソジジイ)!」


 危うく本音が漏れかけ、玄功は慌てて口を押さえた。陽詢はいぶかしげな視線を一度向けたが、構わず続けた。


「王世充なども、所詮は獅子身中の虫よ。いずれ隋に反旗を翻すに決まっておろうが……。お前は、あ奴に会ったのだろう?」


「ええ……。腹の底が読めない、底知れぬ気味の悪さがありました」


 欧陽詢は椅子から立ち上がり、玄功に一歩、また一歩と近づいた。


「さて。儂が長安で集めた物資は、今、どうなっておると思う?」


 急な話題の転換に、玄功は記憶を必死にたどる。


「……確か、常平倉じょうへいそうと、いくつかの集積場に分けて保管されていたはずです」


「そうじゃ。洛口らくこうが落ちた今、それらはそのまま手付かずになっておるはずだ」


「そうでしょうね。周辺は李密りみつ瓦崗軍がこうぐんが押さえています。運び出す術はありません」


「左様……。さすれば、じゃ……」


 欧陽詢の手が伸び、玄功の胸ぐらを掴んだ。グイと引き寄せられ、耳元で掠れた声が響く。


「――あ奴ら(李淵たち)に、それをくれてやればよかったのじゃよ……」


 玄功の耳に氷のような言葉を残すと、欧陽詢は掴んでいた服を静かに離した。


(このジジイ、そんなこと考えていたのかよ……)


 唐代における「書の偉人」としてしか欧陽詢を認識していなかった玄功にとって、それはあまりに衝撃的な瞬間だった。その偉人が目の前で泥臭い権謀術数を弄している。歴史の奔流に、玄功は眩暈めまいを覚えるのだった。


*****


 ときは、玄功らが江都に到着する数日前に遡る。場所は江都、宮城内にある一室。


「お手紙が届いております」


 差し出された書状を、男――虞世南ぐせいなんは静かに受け取った。


「そうか。大儀であった」


「いえ。では、失礼いたします」


 去りゆく若い官吏の背を見送り、世南は手元にある書状を裏返した。そこに記された送り主の名に、彼の眉が動く。


「ほう、あの男か。以前ここで会ってから久しいが……武関ぶかんで息災にしておるかの」


 親類である虞校尉の無事を喜ぶような柔和な笑みを浮かべ、世南は封を解いた。しかし、実直な筆のその文面に目を通すうち、その笑みは次第に消え失せていく。さらに、同封されていたもう一枚の紙――玄功が書いたあの「詩」へと手が伸びたとき。


「う……お、おぅ……っ!」


 世南の口から、唸るような絶句が漏れた。書状を持つ指先が、目に見えて震えだす。その瞳に宿ったのは、驚愕を通り越した「戦慄」だった。


(この書……そしてこの言葉、一体……!?)


「これはいかん……。……直ちに陛下に言上し、欧陽太常おうたいじょうの謹慎を解かねばならん!」


 世南は慌てて衣服を正すと、何かに追い立てられるように、急ぎ足でその場を後にしたのだった。


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