隋帝国の奸雄
あれから三日。玄功らは依然として檻の中にいた。この停滞をさらに過酷にしているのが、夏のまとわりつくような蒸し暑さと、酷悪な食事だった。
「今日もただ暖かいだけの水かよ……。おっ、底の方に三粒、粟が入ってたぜ」
一瞬だけ喜色を浮かべ、慌てて残飯のような粥をすする阿成。一方の玄功は、じっと目を閉じ、座禅でも組んでいるかのように静止していた。
(おそらく、奴らは俺たちを観察している。ここで取り乱せば、ただの浮浪者として切り捨てられるだけだ……)
「おい玄功、食わねぇのか?」
「……ああ、大哥が食っていい。俺はまだ腹が減っていない」
「いや、さすがになぁ……」
そう口では言いながらも、阿成の腹は盛大に、そして正直な音を立てて返事をした。
その時、重苦しい空気を破って兵士が近づいてきた。
「おい、お前。出ろ!」
(――来たか)
玄功はゆっくりと目を開け、さも平然とした様子で立ち上がった。泥にまみれてもなお失われないその気品に、声をかけた兵士が一瞬たじろぐ。玄功は促されるまま、その背を追って歩き出した。
*****
「将軍、連れて参りました!」
「よし、入れ」
十分ほど歩かされた先にあったのは、一際巨大な牙帳だった。幕の内側には、豪華な鎧を身にまとった男が座していた。しかし、その佇まいは、周囲の荒々しい武官たちとは明らかに一線を画している。冷徹な知性を湛えた瞳、そして獲物を見定めるような特有の威圧感。
「近くへ」
低い声に呼ばれるまま、玄功はその男の御前へと進み出た。
「名は?」
「橘玄功と申します、将軍」
「……で、お前はどこの者だ?」
「長安にて欧陽詢先生の書生をしております。同行しているのは、家人の阿成です」
「ふむ。過所には、確かにそう記されていたがな……」
男がギロリと、抉るような鋭い視線を送る。
「嘘偽りございません。私たちは師の命を受け、荷を届けるべく旅をしております」
「荷とは何だ?」
「先生直筆の書、および尺牘にございます」
「……何のために?」
「分かりかねます。我らはただ、託された命を果たすのみ。理由までは聞かされておりません」
それからも執拗な尋問が続いたが、玄功は言葉少なに、しかし一点の曇りもない明確な口調で返答を返した。
*****
「うむ。確かに返答は明瞭、かつ矛盾もない」
「であれば……放免いただけますでしょうか?」
「いや、まだだ」
「なぜにございますか」
「確証がない」
一瞬の期待は露と消え、玄功は落胆を隠せなかった。その様子を愉しむように、将軍は口角を上げた。
「まぁ、そう嘆くな。お前の身の潔白を立てる、よい方法がある」
「それは……何でしょう」
「お前の『書』を見たい。今から私が口にする言葉を、そのままこの紙に書き写せ。それで判断してやろう」
「……分かりました」
玄功は脇に用意された机の前に座した。並べられた筆を取り、硯の海に浸す。一か月間の修行でがっしりと安定した右手が、静かに筆を構えた。
「どうぞ、いつでも」
「では、参るぞ」
将軍が口を開いた。語られたのは、自軍の戦場での機微、朱粲や李密といった群雄との熾烈な戦況、そして目を覆いたくなるような食糧不足の惨状……。軍の存亡に関わる重大な機密であった。
「……これより先、敵の攻撃はますます激化し、このままでは我が軍は瓦解の恐れあり。ゆえに、速やかに輜重を送られたし。以上だ」
玄功の筆は淀みなく動き、言われた通りの文章を白紙の上に定着させた。書き終えて筆を置くと、玄功は素朴な疑問を口にした。
「あの、将軍。このような軍の機密を、私のような者に喋ってもよろしいのですか?」
「なに、身の証が立ったのでな」
「はあ? 先ほどは確証がないと……。将軍はまだ、私の字を一行もご覧になっていないではありませんか」
「字など見ずともよい。見ていたのは、お前自身だ」
その言葉に、玄功は心臓を冷たい手で掴まれたような衝撃を受けた。
(――この男、俺が書く内容に動揺し、手が止まらないかを見ていやがったのか!)
玄功はあえて無知を装い、白々しく尋ねた。
「それは、どういう意味でございましょうか?」
「もし機密を耳にして、お前が少しでも間者らしい反応を示したなら……おい、出てまいれ!」
将軍の合図とともに、幕の外から物々しい兵士たちが数人、殺気を放って入ってきた。将軍は自らの首元に指を当て、わざとらしく横に引いて見せた。
「こうなっていた、ということだ」
玄功の背中に、嫌な汗が流れる。
「ということは……信じていただけた、ということでよろしいのですね?」
「まぁ、そういうことだ。そしてお前には、この手紙を江都まで届けてもらう。安心しろ、我が軍の軍船を出してやろう。それに乗り、一気に江都を目指せ。以上だ!」
将軍は有無を言わさぬ指図を兵士に下すと、呆然とする玄功を牙帳から連れ出させた。
*****
戻ってきた玄功の姿を認めると、阿成が檻の格子越しに身を乗り出した。
「おい、どうだった……!?」
「……ああ、大丈夫だよ。明日、軍船に乗って江都に行けそうだ」
「へぇ~! さすがはお前だな。一体、どんな手を使ったんだ?」
玄功は一息つくと、牙帳で繰り広げられた王世充との化かし合いを、かいつまんで阿成に話して聞かせた。
「その王世充って将軍、なかなか切れる人みたいだな……」
「ああ、あれは危険だ。まるで心の中まで覗かれているような、妙な威圧感があったよ」
「おっかねぇな……。だが、これで晴れてここから出られる。いやぁ、助かったぜ!」
阿成が喜びのあまり、玄功の背を勢いよく叩いた。
「ゴホッ、ゴホッ……! 乱暴するな、馬鹿力……。ああ、でも、安心したら急に腹が減ってきたな」
玄功は、阿成が自分のために食べずに残しておいてくれた水粥の器を手に取った。冷めて、粟の粒がわずかに沈んでいるだけの頼りない食事。だが、それをゆっくりと喉に流し込むと、五臓六腑に染み渡るような心地がした。こうして、囚われの三日間が終わった。
*****
翌朝、まだ紫がかった薄明りの中。檻から出された二人は、兵士に促されるまま漢江の船着き場へと連行された。そこに停泊していたのは、隋軍の旗を翻す堅牢な軍船だった。
「乗れ。途中の検問は我が軍の旗が通してくれる。だが、江都に着くまでは安心できんぞ」
兵士の無愛想な言葉を背に、二人は甲板へと降り立った。ようやく訪れた平穏に、阿成は安堵の溜息を漏らし、玄功もまた川風を吸い込んで小さく肩の荷を下ろす。しかし、そんな二人の背後――。立ち並ぶ兵士の群れの中に、一人だけ、射抜くような鋭い眼差しで玄功の動きを凝視している者がいた。その視線は、単なる監視を超えた執着を孕んでいたが、解放の喜びに浸る玄功らは、その不穏な存在に全く気が付いていなかった。
やがて、重々しい錨を上げる音が響き、軍船はゆっくりと岸を離れた。川風を孕んで帆が膨らむ。ここからは、流れに乗って一気に江都へと向かうことになる。長かった逃避行が、ようやく、終わりを迎えようとしていた。




