二人旅の再開と別れ
「うわああ、なんだこの道っ!」
一歩踏み出した瞬間、玄功の叫びが谷底へと吸い込まれていった。
「ビビんじゃないわよ、玄功! お前、それでも男か!」
「いや赫麗さんよ、男とか気合とかの問題じゃないと思うぞ……。これ、ただ岸壁に棒が突き刺さってるだけじゃないか!」
玄功が衝撃を受けたのも無理はない。足元にあるのは、切り立った岩壁に穴を開け、太い丸太を差し込んで板を渡しただけの「桟道」。
「蜀の国にも有名なのがあるって、白翁が言ってたわ。道がないなら作ればいい。合理的でしょ?」
赫麗は事も無げに言うが、板の隙間からは遥か下方の濁流が見え隠れしている。
恐る恐る、一歩一歩を確認するように進む玄功。その後ろを、阿成が静かに付いていく。
「お前ってのは本当に不思議な奴だよなぁ。俺たちが知らないことは山ほど知ってるくせに、こういうのはまるっきりダメなんだから」
阿成は苦笑しながらも、いざという時に玄功を支えられるよう、常に重心を低く構えていた。
「大哥、話しかけんな! 今、俺は必死に今を生きてるんだ……っ!」
「……そりゃ違いねぇや」
亀の親子がてくてくと歩くような遅さで、一団は数時間をかけ、ようやく桟道を通り抜けた。だが、一息つく暇もなく次に待ち構えていたのは、断崖の谷間に架かる巨大な「吊り橋」だった。 踏み板の一部は腐り落ち、至るところに大きな穴が開いている。風が吹くたび、橋全体が嫌な音を立てて大きく揺れた。
「……もう無理だ、ここで暮らす……」
岩場にへばりつき、半べそをかく玄功。とうとう痺れを切らした赫麗が、不敵な笑みを浮かべて玄功の首根っこをひっ掴んだ。
「ふふふ。そんなに怖いなら、私が手伝ってやろう」
「え、あ、ちょっと待っ――」
「いくわよ!」
赫麗は玄功を抱えたまま、あろうことか駆け足で吊り橋を渡り始めた。
「うぎゃあああああああ!!」
天地がひっくり返るような衝撃と、足元の不安定な揺れ。玄功の意識は急速に遠のき、ついには白目をむいて硬直した。
「全く……これだから都会育ちは手がかかるんだから」
渡り切ったところで、赫麗は玄功を「ポイッ」と放り投げた。手をパンパンと叩いて腰に手を置く彼女の姿を見て、遅れて渡ってきた阿成は思う。
(玄功も赫麗にかかれば、まるで赤ん坊だな……。ああ、そういやあいつ、まだ子供だったっけか)
そんな命を削るような道中が一週間ほど続き、一行はついに険しい山を抜けた。眼下には悠然と流れる大きな川と、視界の端まで続く開けた土地が広がっていた。
*****
山を下りきると、そこには陽光を照り返して銀色に光る、大きな川のふもとの人里があった。
「じゃぁ、あたしはここでお別れね。今度は盗賊なんかに捕まるんじゃないわよ」
赫麗は、いつもの不敵な笑みを浮かべて二人を振り返った。
「すまねぇな、赫麗さん。……ほら、お前も礼を言えよ」
「あ、ああ……。その、いろいろと、ありがとうございました」
玄功が慣れない敬語で、少し照れくさそうに頭を下げる。すると、赫麗は「フッ」と声を漏らして笑った。
「お前が素直だと、どうしてだろうな。……なんだか、笑ってしまうわ」
「なんだよ……」
「まぁいいわ。では、旅の無事を!」
ガシッと拳を掌に当てる武人らしい礼を交わすと、赫麗は迷いのない足取りで、来た道を振り返ることなく歩き出した。玄功と阿成は、その背中が小さくなるまで見送った。
こうして、再び二人だけの旅路が始まった。
*****
「おっちゃん、ここはなんて名前の街だ?」
村の入り口で、農作業をしていた老人に阿成が声をかけた。
「あぁ? ここは石花っちゅーだ。お前さんらは旅の人かい?」
「ああ」
「ほぇ~、珍しいだなぁ。しかも、そげなちっこいのも連れて……」
「襄陽まで行きてぇんだが、どれくらいかかる?」
「そうさなぁ。ここからじゃ、丸二日はかかるだ。……泊まるとこ無いんなら、おらが家にでも泊まっていくか?」
「えっ、いいのか?」
「ああ、ええでよ。どうせ一人身じゃ、話相手ができてええわ」
二人はこの石花村で一晩を過ごし、翌朝、村を流れる大河「漢江」に沿って歩き出した。
*****
襄陽を目指し歩き始めて二日目。目的地が目前に迫った頃、街道の向こうから、地を這うような砂塵が巻き上がるのが見えた。
「おい、あれはおかしいぜ」
足を止め、耳を澄ます玄功。ドッドッドッ……と重厚な地響きが、急速に大きくなってくる。
「これは軍馬の蹄の音だ。大哥、隠れろ!」
慌てて川縁の方へと駆け出す二人。だが、背負った荷物の重さが足枷となり、思うように距離が稼げない。
「そこの者、止まれ! 止まらねば斬る!」
鋭い怒号とともに、あっという間に数騎の騎兵に包囲された。抜き放たれた剣の冷たい光が、二人の首筋をかすめる。
「お前たちは、どこの者だ?」
「……江都まで向かう旅の者です」
「何、江都だと? この時期に長安から江都だと……怪しい奴め。ひっ捕らえよ!」
下馬した兵士たちが、乱暴に玄功と阿成を組み伏せた。
「俺たちは怪しい者ではありません。どうか、過所(通行証)をご覧ください!」
「問答無用だ。ここは戦場よ。相手を信じて寝首をかかれるわけにはいかん。本陣にて取り調べる!」
二人は後ろ手に縛られたまま、軍の荷台へと放り込まれた。
「なぁ、大哥……」
「なんだ、玄功」
「俺たち、とことん不運だよな……」
「言うな。悲しくなる……」
度重なる不運を溜息とともに噛み締めながら、二人はガタガタと揺れる荷台に揺られ、街道を進んでいった。
*****
連れて行かれた先は、大きく湾曲した漢水に面した広大な平原だった。そこには無数の天幕が並び、厳重な陣が敷かれていた。
「降りろ!」
荷台から引きずり降ろされた二人は、丸太で組まれた頑丈な檻の中へと放り込まれた。
「今度は檻の中か。……次はどこへ行くんだ、俺たちは」
もはや破れかぶれの阿成が、気の抜けた声を出す。
「うるさい、黙っていろ!」
兵士の怒声に、阿成は「へいへい……」と力なく横たわった。
だが、玄功は違った。檻の隙間から、じっとこの軍の様子を観察していた。
(……反乱軍にしては、規律が取れすぎている。兵装も最新の品だ。これは、隋の正規軍か……)
「大哥、ひょっとすると助かるかもしれない」
「おい、どうしてだ?」
「こいつら、多分隋国の兵だ。反乱軍に捕まるよりは話が通じるはずだぜ」
「それにしちゃ、過所もろくに見やしなかったぞ」
「今は戦時中なんだろう。……どっちにしても、しばらくはこのままだろうけどね」
「じゃあ、俺は寝るわ。体力を温存しねぇとな」
そう言って背を向ける阿成。だが、玄功の眼光は鋭く、陣の中央にある最も大きな天幕を見つめていた。規律正しい兵たちの間に漂う、妙に冷徹で、獲物を逃さない獣のような殺気。この軍を率いているのは、ただの将軍ではない。その直感が、玄功の背筋を冷たく撫でていた。




