山里の一か月
夜も更け、玄功と阿成が寝息を立て始めた頃。白翁の部屋には、膝を正した赫麗の姿があった。
「様子はどうであった?」
「……取り立てて怪しい動きはございません。ただの書生にしては肝が据わっておりますが。何か、気になることでも?」
白翁は遠い空を仰ぐように目を細めた。
「今年の春、天文が荒れた。客星が現れ、その後に太白が軌道を外れた」
「確か、以前もおっしゃっていましたね」
「客星は反乱の予兆、太白のずれは政変の予兆。いずれもすでに地の上で起こってはいるが……問題は、その後に現れた小さな瞬きよ」
「それが、あの玄功と関わりが?」
「分からん。あ奴は確かに、その身の丈に合わぬ何かを隠しておる。だが、邪悪さは感じなんだ。あるのは、書に対する業にも似た渇望のみ。……なんとも、不可思議な少年よな」
白翁の言葉に、赫麗は無言で首を傾げた。
「いずれにせよ、あ奴らの旅はここでしばらく足止めとなろう。その間、面倒を見てやってくれ。……修行の相手も含めてな」
「承知いたしました」
*****
翌朝、昨日と同じように赫麗は朝食を運んできた。
「……」
盆を置かれた瞬間、玄功は獲物を狙う鷹のような目で、慎重に餅を観察し始めた。
「疑い深いなぁ。さすがに、二日続けて同じ手は使わないわよ」
「ほ、本当か……? ならば、いただく!」
空腹には勝てず、玄功は大きな口を開けて餅を放り込んだ。次の瞬間――。
「ブッーーーー!!」
「あっはっはっは!!!」
豪快に笑い転げる赫麗。玄功の顔は、一瞬で見たこともないような土色に変わった。
「……っ、おげぇ! 今度は何をしやがった!」
「安心しろ、毒ではない。ただ、この辺りで一番苦い薬草を練り込んだだけ。……な、目が覚めただろ?」
とうとう、玄功の堪忍袋の緒が切れた。相手が女性だとか、恩人だとかいう理性を、苦みが一瞬で焼き切った。
「これでも喰らえ!」
玄功は食べかけの餅を赫麗に向けて投げつけた。しかし、相手は百戦錬磨の武侠だ。赫麗は軽やかな身のこなしで餅を空中で受け止め、そのまま玄功の額へ目掛けて投げ返した。
「痛って! ……よくもやったな、このじゃじゃ馬!」
その言葉に、赫麗の眉がピクリと跳ねた。
「ほぅ……。貴様、この私をじゃじゃ馬扱いしたな? ……よかろう、そのじゃじゃ馬が怒ればどうなるか、その軟弱な体に刻み込んでやる!」
「あ、いや、今のは……っ!」
ハッと我に返った玄功だったが、時すでに遅し。
「ぎゃあああ!」
「待て、話せば分かる!」
小屋の中に玄功の悲鳴がこだまする。一方の阿成は、霊芝入りの粥をゆったりとすすりながら、
「いいぞ、やれやれー! 赫麗、もっと腰を落として、いけー!」
と、二人の喧嘩を、酒の肴にでもするかのように楽しそうにはやし立てていた。
*****
一段落して、荒い息をつく玄功を見下ろし、赫麗が言った。
「なぁ玄功。お前、それはさすがに弱すぎるぞ。……どうだ、私が少し鍛えてやろうか? どうせ阿成が回復するまではここにいるんだ。退屈しのぎにはちょうどいい」
「クソ……やってやる! 絶対にお前に一太刀……いや、一蹴り入れてやる!」
「ほう、威勢だけはいい。面白い、では早速修行開始だ!」
玄功の余計な一言が引き金となり、再び赫麗に揉まれる日々が始まった。
「あいつ、本当に才子なのか?」
残りの粥を丁寧にすすりながら、阿成はふと疑問を口にし、砂埃にまみれて転がる二人の修行を眺めていた。
*****
「散々だったな、お前!」
夜、小屋に戻ると、妙にニヤニヤしている阿成が玄功を冷やかした。
「大哥、何ニヤついてんだよ……。霊芝の食いすぎで頭がさらに悪くなったのか?」
「頭が悪いのはお前の方だろうが。赫麗に余計な一言を言ってわざわざ蹴り飛ばされて……もしかしてお前、それを喜んでるのか?」
「喜んでない! 疲れた、もう寝る!」
「ああ。俺も、そろそろ寝るとするか」
そんな騒がしくも充実した日々が、一か月ほど続いた。
*****
「待たせたな。もうすっかり良くなったぜ」
ある朝、阿成が小屋の外で力強く腕を回してみせた。
「無理すんなよ、大哥」
「無理はしてないさ。もう一か月だ。これ以上はここにも迷惑だし、俺たちも江都へ急がねぇとな」
「そうなんだが……」
玄功は自分の腕を見つめた。この一か月、赫麗の厳しい……いや、苛烈な修行に耐え抜いた。
「にしてもだ、玄功。お前、この一か月で随分がっちりしてきたなぁ。顔つきも精悍になった」
「そうか? 自分じゃ分からねぇよ。相変わらずあのじゃじゃ馬には指一本触れられねぇ。……クソ、次こそは……!」
「誰がじゃじゃ馬だって?」
日課となった朝食を盆に載せ、赫麗が小屋に入ってきた。
「いえ! 何でもございません!」
「そうか。ならいい。ほら、飯だ、食え。……今日は変な薬草は入れてないわよ」
「はい、いただきます!」
勢いよく餅にかぶりつく玄功と、それを「素直になったもんだ」と細い目で見守る赫麗。そんな二人のやり取りを、阿成はクスリと笑いながら、いつもの粥を口へと運んだ。
*****
明日出立となる、その夜。いつものように赫麗は深夜に白翁の部屋を訪ねた。
「……明日、出立となります」
「お前はこの一か月、あの少年を見てどうであった?」
「はい。素の少年は、あの顔に似合わずガサツでした。ですが、怪しいところは感じられず、武の方も……教えれば筋は悪くないかと」
白翁は満足げに頷き、夜の闇を見つめた。
「万里一空か……。一つの道を極めんとすれば、いずれは己との戦いになる。今まさに、かの少年は己のと戦っておるのじゃ。その戦いに、終わりはない」
「……そんなものでしょうか。私には、まだ分かりませんが」
「ほほ、まぁよい。お主にも、いずれ分かる時が来ようて」
*****
そして翌日。朝露に濡れる里の入り口で、玄功と阿成は白翁に向かい、深く頭を下げた。
「白翁様、本当にお世話になりました。このご恩は、生涯忘れません」
「よいよい。さて、襄陽の付近までは赫麗に送らせよう。じゃが伝えた通り、ここから先は断崖の道。驢馬は連れていけぬぞ」
「はい、赫麗から聞いております。……せめてものお礼に、この驢馬は里で使ってください。長安からずっと一緒に歩いてきた、いい奴なんです」
玄功は愛馬の鼻先を優しく撫で、その手綱を里の男に預けた。
「では、ありがたく受け取ろうかの。……さらばじゃ、達者でな。ああ、そうそう。重ねて言うが、天文が荒れておる。十分に気を付けるのじゃよ」
「はい。ありがとうございます!」
玄功と阿成が、重くなった荷を背負い直す。その瞬間。白翁と赫麗は、静かに視線を交わし、短く頷き合ったのだった。




