長安の空
長安、大極殿では李淵自らが出席して、盛大な凱旋式が執り行われていた。
「元帥、よくやった!」
「ははぁ。逆賊薛仁杲をここに捕らえ、天下に陛下の威信を轟かせたること驚悦至極に存じます」
「うむ、それもそちの働きあってのこと、大儀であった!」
「なんの、我が勤めを果たしたるまでのこと……」
「皆の者聞いたか! 元帥は天下に唯一無二の強者ぞ、ハッハッハ!」
仰々しく笑う李淵をよそに、傍に控える皇太子・李建成は笑顔でこの優秀な弟を見つめながらも、その手はぎゅっと固く握りしめられていた。
「さて、後ろに控える両名、面を上げよ」
先ほどとは打って変わった李淵の低い声に、李世民の後ろで低頭していた二人の男が顔を上げた。
「劉文静と殷開山。元帥よりそなたらの活躍は耳にした。その働きに免じ旧職に戻すこととする。より一層忠勤せよ」
「ははぁ……ありがたき幸せ」
かくして、一度は平民に落とされた宿老二人もこれにより官位と地位を戻された。しかし、それを快く思わなかったもう一人の宿老がいた。その人こそ裴寂であった。
*****
「おい玄功。お前は見に行かないのか?」
「ごめん被るよ、阿成兄さん……」
「そ、そうか……。だがよ、見てみろよあの人だかり。みんなあの薛仁杲の処刑を見に行っている連中だぜ」
「はぁ……、どうして連中はあんなものを見たがるかねぇ……」
「そりゃお前、敵だからだろ? あいつらこの長安に攻めてきたんだぜ。そんな奴が殺されるんだ、そらスカッとするだろうさ!」
「そんなもんか?」
「そんなもんさ!」
こうして阿成は赫麗を引き連れ、処刑場へと向かっていった。
(あんなの見て何が楽しいんだ? 全く理解できん……)
玄功は兄貴の後ろ姿を眺めながら、書嚢を肩に掛け、大通りを彼らとは反対側へと歩いて行った。しばらくすると、酒楼や宿屋といった店が並ぶ賑やかな通りへと差し掛かった。
(ここは賑やかだな……やっぱり都会はこうでなくっちゃ!)
玄功は塞ぎ気味であった気持ちを街の活気でごまかしながら歩いていると、目の前の茶屋に一人の老人が佇んでいるのが見えた。
(あの衣装は……隴西の方の物。では、西秦の関係者か?)
李世民が帰還し、西秦軍の主たる者たちは処刑され、残された最後の大物・薛仁杲もまさに処刑されようとしていた。だが、それ以外の者たちの多くは罪を許され、唐への帰順が認められていたのだ。
「あ、あのぅ……何かお困りですか?」
玄功は初対面のその老人に、何気なく声をかけたのだった。
*****
郝瑗は賑やかな通りの茶屋で何をするわけでもなく、ただ通り行く人々の群れを茫然と眺めていた。
(薛将軍は死し、その子ももう……。すべてを失ったこの儂は、これから何を成せばよいというのだ……)
ただ同じ問いを自問自答する。そんなとき、目の前に小綺麗なたたずまいの少年が、礼儀正しく語りかけてきた。
「あ、あのぅ……何かお困りですか?」
「ん、いや。そうではないが……そう見えたか、少年?」
「ええ、失礼ながら……西秦の方でしょうか?」
「なぜそう思うのだ?」
「失礼ながら、そのお召し物です。上質な羊の織物ではありますが、所々……その……」
言葉を濁す少年に、郝瑗は我が身を見下ろした。
「ハッハッ、確かにボロだな。これは気が付かなんだ!」
「いっいえ、決してそのような……」
少年は取り繕うと必死だ。
「すまぬ少年。君を責めておるのではない……ん? 少年。その肩から下げているのは書嚢か?」
「ええ、そうです」
「ほう。してその身なり……。まさかとは思うが、少年は官吏か?」
「はい、正九品です。真に恐れ多いことですが……」
「ほう、九品か。その若さで大したものだな……」
郝瑗がこの少年とわずかに言葉を交わした後、その瞳にふと生気が蘇った。
「のう少年。其方も官吏の端くれならば、書にも通じておろう? ひとつ、儂と勝負せぬか?」
「書で勝負!?」
少年は戸惑いながらも、その目にわずかな光をみなぎらせた。
「よい顔じゃ。だが、ここは勝負の場としては不足じゃな。よい、ついてこい!」
かくして郝瑗は玄功と名乗る少年官吏を引き連れ、近くの酒楼へと入っていったのだった。
*****
「ここに集いし諸兄ら、聞いてもらいたい。この儂とこの少年で、これより書を競う。諸兄らにおかれては、どちらの書が優れておるか書評を願いたい!」
「「おぉ~!」」
周囲は盃を片手にどっと盛り上がり、両名を囃し立てた。
「では少年。儂から行くぞ!」
郝瑗は一気呵成に筆を走らせた。それはまるで石に鑿で刻むような、力強い方筆の動き。それを玄功は目を輝かせながら、瞬きもせず凝視していた。
(これは北魏楷書……! こんなものを間近で見られる日が来るとは!)
郝瑗が筆を置くと、この時を待っていたとばかりに玄功は矢継ぎ早に質問を飛ばした。
「老師のご出身は? これをどこで学ばれましたか? いや、そもそもどこでこの筆法を……?」
あまりに前のめりな少年に、戸惑いつつも、勝負師としての性が郝瑗の興味をかき立てた。
「少年、質問は儂との勝負が終わってからじゃな! ほら、其方の番じゃ」
郝瑗は玄功に筆を渡した。玄功はわずかに思案すると、郝瑗の書いた文字の気風を受け継ぎつつも、まったく造形美の異なる文字を書き始めた。
(あの北魏楷書を乗り越えるのはただ一つ――わが師の楷書の極則……!)
玄功は縦長の背勢、細身でありながらまるで鋼のような緊張感を宿した線を走らせていった。
(な、なんという美しさ……。この書は、どこか我が書の峻厳な風情を残していながら、まったくの別物……。それに比べ、儂の字は……)
「……文質彬彬として、しかる後に君子なり……か。見事じゃ。無念だが、儂の負けじゃな」
郝瑗は自らの無骨な文字と少年の描いた文字を見比べ、静かに筆を置いた。
(この歳まで勝負にこの命をかけてきた。じゃが、戦に敗れ、今度は書でも敵わぬか……。いや、これでよいのだ。この書は新しき時代の書。儂の書は、もう時代を担う器ではない、ということか……)
フッと頬を緩め、郝瑗は大きく息を吐き出した。
「諸兄、この勝負、儂の負けじゃ! ここにおる全員に儂から酒を進ぜよう、思う存分飲んでくれ! 玄功と申されたな、そなたも存分に飲むがよい! ハッハッハ!」
心から負けを認めた郝瑗の顔は、なぜか驚くほど晴れやかだった。
「……長安の空は、こんなにも青かったか……」
そう呟きながら流した一筋の涙と共に、その日は盛大に飲み明かしたのだった。
そして、数日後。
郝瑗はこの世を去った。
史書にはただ、「病死」とだけ短く記されただけであった。




