第七話 千年前の記憶
朝の柔らかな陽射しが、大きな窓から勉強部屋へ差し込んでいた。
窓の外では、小鳥たちが楽しげにさえずり、庭を渡る風が木々の葉を優しく揺らしている。
今日も一日の授業が始まる。
ミリアは軽く深呼吸をすると、いつもの席へ腰を下ろした。
ふと机の上へ目を向けた瞬間、小さく目を見開く。
「……あれ?」
そこに置かれていたのは、いつも授業で使っている教本ではなかった。
一冊の分厚い歴史書。
濃紺の革張りの表紙には、繊細な金色の装飾が施され、長い年月を重ねてきたことを感じさせる重厚な佇まいをしている。
まるで、本そのものが悠久の時を知っているようだった。
「先生、今日はその本を使うんですか?」
ミリアが尋ねると、向かいへ腰掛けたユーリは穏やかに微笑んだ。
「ええ。」
「今日は、この歴史書を使って授業を進めます。」
そう言って、本へ静かに手を添える。
「この本には、この世界の始まりや、古くから語り継がれてきた神話が記されています。」
「昨日は魔法について学びましたね。」
「魔法をより深く理解するためには、まず、この世界そのものを知ることが大切なのです。」
その言葉を聞き、ミリアの胸は自然と高鳴った。
昨日、自分の手で初めて魔法を使えたこと。
世界に満ちる生命エネルギーと、自らの生命エネルギーを調和させることで、不思議な力が生まれること。
その感動は、今も鮮明に胸へ残っている。
(世界は、どうやって生まれたんだろう。)
(妖精は、いつからいるんだろう。)
期待を胸いっぱいに膨らませていると、その横でライトが歴史書の周りをふわふわと飛び始めた。
「すごーい!」
「こんな本、初めて見る!」
興味津々な様子で表紙を覗き込んでいたライトは、不意にぴたりと動きを止める。
「……あれ?」
その小さな呟きに、ミリアは声を潜めた。
「どうしたの?」
ライトは首を傾げたまま、本を見つめ続けている。
「初めて見るはずなのに……。」
「なんだか、この本……懐かしい。」
「懐かしい?」
「うん。」
小さな胸へ手を当てる。
「見たことなんてないと思うんだけど……。」
「胸が、あったかくなるんだ。」
ミリアは昨日、黄金色に輝いた属性水晶を見つめていたライトの表情を思い出した。
あの時も、どこか遠い記憶を探しているようだった。
(やっぱり……。)
(ライトには、まだ思い出していない記憶があるんだ。)
でも、それを無理に聞くつもりはなかった。
思い出せないのなら、きっと理由がある。
いつか、その時が来ればいい。
ミリアは優しく笑った。
「きっと思い出せるよ。」
「その時は、私にも教えてね。」
ライトの顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
「約束!」
ライトは小さな手を差し出した。
ミリアもそっと指先を重ねた。
その時だった。
「……お嬢様?」
ユーリの穏やかな声に、ミリアは肩をびくりと震わせた。
「えっ?」
「どうかなさいましたか?」
ユーリは不思議そうに首を傾げている。
もちろん、ライトの姿は見えていない。
ユーリには、ミリアが突然、小指を差し出したようにしか見えなかったのだ。
「あっ……。」
ミリアは慌てて手を引っ込める。
「な、何でもありません!」
「少し考え事をしてしまって……。」
「そうでしたか。」
ユーリは小さく微笑んだ。
どこか不思議そうな表情ではあったが、それ以上尋ねることはしない。
(また、不思議な仕草を……。)
ほんの一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
だが、幼い子どもには時折、誰にも分からない遊びや癖があるものだ。
そう自分へ言い聞かせ、ユーリは静かに気持ちを切り替えた。
「それでは、お嬢様。」
「本日の授業を始めましょう。」
ミリアは小さく咳払いをすると、背筋を伸ばす。
「よろしくお願いいたします。」
ユーリは歴史書をゆっくりと開いた。
静かな部屋へ、古い紙をめくる音が優しく響く。
「今から、およそ千年前――。」
そう語りかけたユーリは、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……そう伝えられていますが、本当は、それよりもさらに昔のお話です。」
ミリアは息を呑み、ページに描かれた最初の挿絵へ視線を向けた。
そこにに描かれていたのは、果てしなく続く静かな闇だった。
空もない。
大地もない。
風も、水も、命さえ存在しない。
ただ、永遠とも思える静寂だけが広がっている。
ミリアは思わず息をのんだ。
「何も……ないんですね。」
その呟きに、ユーリは静かに頷く。
「ええ。」
「この歴史書によれば、世界は何もない闇から始まったと伝えられています。」
そう言って、ゆっくりとページをめくった。
次のページに描かれていたのは、一筋の眩い光だった。
その光は暗闇を優しく照らしながら大きく広がり、やがて一柱の神の姿へと変わっていく。
長い金色の髪を風になびかせ、柔らかな光に包まれたその姿は、見ているだけで心が安らぐような温もりを感じさせた。
「最初に誕生したのが、『光の神』です。」
「光の神は、命と調和を司る神として語り継がれています。」
ミリアは挿絵をじっと見つめた。
神々しいというよりも、慈しみに満ちた優しい表情をしている。
さらにページがめくられる。
今度は夜空のように深く静かな色彩の中、一柱の神が穏やかに立っていた。
漆黒ではなく、月明かりのような柔らかな闇。
その瞳は静かな湖面のように澄み、すべてを包み込むような優しさを宿している。
「そして、光の神の傍らへ現れたのが、『闇の神』です。」
ミリアは少し首を傾げた。
「闇……ですか?」
「はい。」
「闇という言葉だけを聞くと、恐ろしい存在を思い浮かべる方もいるでしょう。」
「ですが、この神話では違います。」
ユーリは穏やかな声で続ける。
「光の神は命を育み、闇の神は命を休ませる。」
「昼があるから命は活動し、夜があるから命は癒やされる。」
「どちらか一方だけでは、この世界は成り立ちません。」
ミリアは静かに頷いた。
「昼と夜……どちらも大切なんですね。」
「その通りです。」
ユーリは嬉しそうに微笑んだ。
「だからこそ、この神話では光と闇は争う存在ではなく、互いを支え合う存在として語り継がれているのです。」
ミリアはもう一度、二柱の神が描かれた挿絵へ目を向ける。
寄り添うように立つその姿は、まるで長い年月を共に歩んできた家族のようにも見えた。
「……素敵ですね。」
「何がでしょう?」
「光も闇も、お互いを否定しないところです。」
「どちらも世界に必要だから、一緒にいる……。」
「そんな神話って、とても優しいなって思いました。」
ユーリは満足そうに目を細める。
「神話とは、出来事を伝えるだけではありません。」
「そこへ込められた願いや想いを、後の時代へ伝えるものでもあります。」
「お嬢様がそう感じられたのであれば、この物語はきっと、その役目を果たしているのでしょう。」
ミリアは嬉しそうに微笑み、小さく頷いた。
その横では、ライトが二柱の神の姿をじっと見つめていた。
「……。」
胸の奥が温かい。
懐かしい。
けれど、その理由だけが分からない。
思い出そうとすると、霧がかかったように何も見えなくなる。
「ライト?」
ミリアが小さな声で呼びかける。
ライトははっと我に返り、慌てて笑顔を作った。
「う、うん!」
「なんでもないよ!」
そう笑う姿はいつも通りだったが、その瞳には小さな戸惑いが残っていた。
ユーリは静かに次のページを開く。
そこには、光の神と闇の神が、穏やかな笑みを浮かべながら世界を見つめる姿が描かれていた。
「世界へ命が芽吹き始めると、光の神と闇の神は願いました。」
ユーリはゆっくりと、その一文を読み上げる。
「『この世界が、これからも豊かに育ち続けますように。』」
部屋に静かな空気が流れる。
その願いは、まるで今も世界を包み込んでいるような温かさを感じさせた。
「しかし、広い世界を二柱だけで見守り続けることは容易ではありませんでした。」
「そこで二柱は、世界を司る役目を六つに分け、新たに六柱の神を誕生させたと伝えられています。」
ページがゆっくりとめくられる。
そこには六色の光が空へ舞い上がり、一柱、また一柱と神々の姿へ変わっていく幻想的な光景が描かれていた。
赤。
青。
緑。
茶。
白。
黒。
六色の光は、それぞれ異なる輝きを放ちながら世界中へ広がっていく。
ミリアは、その美しさに目を奪われた。
「先生……。」
「この方たちが……。」
ユーリは静かに頷く。
「ええ。」
「この世界を見守る六神です。」
ページいっぱいに描かれた六柱の神々は、それぞれ穏やかな微笑みを浮かべながら、新たな世界を優しく見守っていた。
どの神も穏やかな表情を浮かべ、それぞれ異なる色の光をまとっている。
「綺麗……。」
思わず零れたその一言に、ユーリは優しく頷いた。
「六神は、それぞれ世界を豊かにする役目を担いました。」
そう言って、一柱ずつ挿絵を指し示していく。
「火の神は、大地へ温もりを与えました。」
挿絵の中では、冷たかった大地へ赤い光が降り注ぎ、火山が生まれ、炎が灯る。
「水の神は、川や海を生み出しました。」
乾いた世界へ透き通る水が流れ始め、小さな流れはやがて大河となり、広い海へと姿を変えていく。
「風の神は、大空へ風を巡らせました。」
止まっていた空気が優しく動き始め、雲が流れ、種が遠くまで運ばれていく。
「土の神は、大地へ豊かな実りを授けました。」
荒れていた地面から若葉が芽吹き、木々が育ち、色鮮やかな花々が世界中を彩っていく。
「光の神は命へ希望を与えました。」
温かな光が生き物たちを照らし、小さな命が次々と誕生していく。
「そして闇の神は、安らぎと静寂を授けました。」
夜が訪れるたび、生き物たちは穏やかな眠りにつき、新たな朝を迎える力を蓄えていく。
ミリアは目を輝かせた。
「みんなで世界を作ったんですね。」
「ええ。」
ユーリは嬉しそうに頷く。
「だからこそ、この世界は調和の上に成り立っているのです。」
「一柱でも欠ければ、その均衡は崩れてしまうでしょう。」
ミリアは静かに六神を見つめた。
それぞれ違う役目を持ちながらも、誰一人欠けてはならない。
だからこそ、神々は争わず、支え合っていたのだ。
ページがゆっくりとめくられる。
そこには、六神がそれぞれ両手を差し伸べ、小さな光を生み出している姿が描かれていた。
赤い光。
青い光。
緑の光。
茶色の光。
白い光。
黒い光。
その光は、やがて小さな羽を持つ愛らしい姿へと変わっていく。
ミリアは思わず身を乗り出した。
「妖精さん……!」
ユーリは微笑む。
「その通りです。」
「六神は、自らの役目を世界の隅々まで届けるため、それぞれの眷属として六属性の妖精を誕生させました。」
「妖精たちは神々の想いを受け継ぎ、世界中を飛び回りながら生命エネルギーを巡らせたと伝えられています。」
挿絵には、小さな妖精たちが花を咲かせ、雨を呼び、優しい風を運ぶ姿が描かれていた。
「妖精たちが飛ぶ場所には花が咲き、木々は育ち、川は清らかに流れたそうです。」
「人々は妖精を敬い、自然を大切にし、互いに助け合いながら暮らしていました。」
ミリアは自然と笑みを浮かべる。
「とても平和だったんですね。」
「はい。」
「神々と妖精、そして人々。」
「すべてが互いを思いやり、支え合う時代だったと語り継がれています。」
その横で、ライトは挿絵から目を離せずにいた。
妖精たちが笑い合う姿。
花畑を駆け回る姿。
空高く舞い上がる姿。
その一つひとつが胸を締め付けるほど懐かしい。
「どうして……。」
ライトは小さく呟く。
「涙が出そうなんだろう……。」
頬へ触れる。
涙は流れていない。
けれど胸の奥が熱くなり、言葉にならない感情が込み上げてくる。
ミリアは心配そうにライトを見つめた。
(やっぱり……。)
(この神話は、ライトと何か関係がある。)
しかし、その答えはまだ見つからない。
ユーリは静かに次のページを開いた。
美しかった挿絵の色合いが、少しだけ変わる。
神々と妖精、人々が共に笑い合う景色はそのままだ。
けれど、その隅には、小さな黒い靄のようなものが描かれていた。
ミリアはその黒い影に気付き、小さく首を傾げる。
「先生……。」
「これは何ですか?」
ユーリの表情が、ほんの少しだけ真剣になる。
「それは――。」
「平和な世界へ、少しずつ生まれ始めた人々の負の感情だと言われています。」
穏やかだった部屋の空気が、ほんのわずかに張り詰めた。
ユーリは歴史書へ視線を落としたまま、穏やかな声で語り続ける。
「神々と妖精、人々が共に支え合っていた時代は、長く続いたと伝えられています。」
ページには、豊かな森を駆け回る子どもたちや、実りある畑で笑顔を交わす人々の姿が描かれていた。
妖精たちは花の上を飛び回り、小鳥たちは歌い、澄んだ川には魚が群れを成して泳いでいる。
「とても幸せそう……。」
ミリアは自然と頬を緩めた。
「ええ。」
ユーリも静かに頷く。
「この頃の人々は、自然への感謝を忘れず、互いを思いやりながら暮らしていたそうです。」
「神々へ祈りを捧げ、妖精たちへ感謝を伝えることが、当たり前の日常だったのでしょう。」
ページがゆっくりとめくられる。
すると、それまで鮮やかだった挿絵の片隅に、小さな黒い靄が描かれていた。
それはほんの僅かなものだった。
気付かなければ見過ごしてしまうほど、小さな影。
「先生。」
ミリアはその影を指差す。
「これは……。」
ユーリの表情が少しだけ引き締まる。
「人の心に生まれた負の感情です。」
「負の感情……。」
「ええ。」
「最初は、本当に小さなものだったと言われています。」
ページには、一人の少年が描かれていた。
友人の立派なおもちゃを羨ましそうに見つめる姿。
「『うらやましい。』」
次のページには、一人の少女。
大好きな友達が別の子と楽しそうに笑う姿を見つめ、少し寂しそうな表情を浮かべている。
「『さみしい。』」
さらにページが進む。
畑仕事を終えた男性が、隣の畑の豊かな実りを見つめていた。
「『どうして、あの人ばかり……。』」
ミリアは黙ってページを見つめる。
どれも、特別悪い人には見えなかった。
誰も誰かを傷つけようとしているわけではない。
ほんの少し、心が揺れただけ。
そんなありふれた感情だった。
「先生。」
「こういう気持ちって……誰でもありますよね。」
ユーリは優しく微笑んだ。
「その通りです。」
「羨ましいと思うことも。」
「悲しいと思うことも。」
「悔しいと思うことも。」
「それ自体が悪いことではありません。」
ミリアはほっと胸を撫で下ろす。
前世でも、誰かを羨ましいと思ったことは何度もあった。
失敗して落ち込んだこともある。
だからこそ、少し安心した。
しかし――。
ユーリの表情が静かに曇る。
「ですが、その感情を抱えたまま、人を憎み、恨み、傷つけたいという想いへ変わってしまった時。」
「その負の感情は、少しずつ形を持ち始めたと言われています。」
ページをめくる。
先ほどまで小さかった黒い靄は、少しだけ大きくなっていた。
人々の笑顔の隙間を縫うように漂い、ゆっくりと数を増やしていく。
ミリアは思わず息をのむ。
「……増えてる。」
「はい。」
ユーリは静かに頷いた。
「一人では小さな感情でも、多くの人々が抱え続ければ、それはやがて大きな流れとなります。」
「誰にも気付かれないまま。」
「静かに。」
「少しずつ。」
部屋がしんと静まり返る。
その静けさが、かえって胸をざわつかせた。
ライトもまた、黒い靄の描かれた挿絵を見つめている。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……いや。」
思わず漏れた小さな声。
ミリアだけが、その声に気付く。
「ライト?」
ライトは首を横へ振った。
「分かんない……。」
「でも、この黒いの……。」
「見てると、すごく苦しい。」
その表情は青ざめ、いつもの笑顔は消えていた。
ミリアはそっとライトを見つめる。
(やっぱり……。)
(ライトは、この神話を知っている。)
(思い出せないだけで……。)
その時だった。
ユーリは静かに歴史書を閉じかけながら、小さく息をつく。
「そして、積み重なった負の感情は、ついに一つの存在を生み出してしまいます。」
その言葉に、勉強部屋の空気が張り詰めた。
「その名を――。」
ユーリの静かな声が響く。
「イシュル。」
その名前が読まれた瞬間、ライトの肩がびくりと震えた。
「イシュル……。」
ミリアは小さくその名を繰り返した。
どこか胸がざわつく、不思議な響きだった。
ユーリは静かに頷き、再び歴史書のページを開く。
そこに描かれていたのは、先ほどまでの穏やかな世界とはまるで違う光景だった。
黒い靄はさらに濃く、大きくなり、人々の住む町や森を覆い始めている。
その中心には、人の形にも獣の形にも見える黒い影が描かれていた。
「イシュルとは、人々の憎しみや嫉妬、恨み、絶望……。」
「積み重なった負の感情が形となり、生まれた存在だと伝えられています。」
ミリアは挿絵から目を離せなかった。
「誰かが生み出したわけじゃ……ないんですね。」
「はい。」
ユーリは静かな声で答える。
「だからこそ、神々も予想していなかったのでしょう。」
「人の心から、そのような存在が生まれることを。」
部屋に重い沈黙が流れる。
ページには、イシュルが黒い靄を広げるたびに、花が枯れ、木々が色を失い、人々が争い始める様子が描かれていた。
悲しみは憎しみを生み。
憎しみは新たな悲しみを生む。
その繰り返しによって、イシュルはさらに力を増していったという。
「六神は人々を救うため、それぞれの眷属である妖精たちと共にイシュルへ立ち向かいました。」
ページには、六色の光が黒い闇へ向かって飛び立つ姿が描かれている。
炎のような赤い光。
清らかな青い光。
優しい緑の光。
力強い茶色の光。
眩い白い光。
静かな黒い光。
それぞれが力を合わせ、世界を守ろうとしていた。
ライトはその挿絵を見つめたまま、小さく震えていた。
「……。」
胸が苦しい。
頭の奥で、何かが弾けそうになる。
白く輝く神殿。
空を覆う六色の光。
誰かの叫び声。
誰かが自分の名を呼ぶ声――。
「ライト!」
ミリアが小さく呼びかける。
その声に、ライトははっと顔を上げた。
「……ご、ごめん。」
苦しそうに胸を押さえながら、それでも首を横へ振る。
「思い出せそうなのに……。」
「あと少しなのに……。」
その瞳には、悔しさが滲んでいた。
ミリアはそっとライトを見つめることしかできない。
無理に思い出させることはできない。
今は、ライト自身がその時を迎えるのを待つしかないのだ。
ユーリは静かに最後のページを開いた。
そこには、六神と六色の光、そして六人の人影が描かれていた。
「激しい戦いの末、六神は六人の英雄へ力を託したと伝えられています。」
「英雄たちは神々と妖精の力を受け継ぎ、イシュルを討つのではなく、封印する道を選びました。」
「封印……ですか?」
ミリアが尋ねる。
「はい。」
ユーリは穏やかに頷いた。
「負の感情は、人の心から生まれたもの。」
「それゆえ、完全に消し去ることはできないと考えられたのでしょう。」
「だからこそ、イシュルは滅ぼされることなく、永い眠りについたと言われています。」
ミリアは静かに歴史書を見つめた。
人の心に負の感情がある限り、イシュルは決して無関係な存在ではない。
その事実が、小さく胸に残る。
ユーリは歴史書を閉じた。
「これが、この世界へ語り継がれている創世の神話です。」
部屋は静まり返っていた。
窓の外では、小鳥がさえずり、柔らかな風が木々を揺らしている。
先ほどまでと同じ穏やかな景色。
それでもミリアには、世界が少し違って見えた。
(この世界には、こんな長い歴史があったんだ……。)
その隣で、ライトは窓の外をぼんやりと見つめていた。
「……白い神殿。」
誰にも聞こえないほど小さな声が漏れる。
「僕……あそこを知ってる……。」
しかし次の瞬間、その記憶は朝霧のように消えてしまった。
「……あれ?」
ライトは困ったように笑う。
「また、忘れちゃった。」
ミリアはそっと微笑み、小さく頷いた。
(大丈夫。)
(きっと、いつか全部思い出せる。)
その日が来ることを信じながら、ミリアは静かに窓の外へ目を向けた。
青く澄み渡る空が広がっていた




