第五話 はじめてのお勉強
昼食を終えたミリアは、身支度を整えるとフィーネに案内され、屋敷の勉強部屋へ向かっていた。
「お嬢様、本日からお勉強が始まります。」
「はい!」
元気よく返事をしたものの、胸の奥は少しだけ落ち着かなかった。
(貴族令嬢のお勉強かぁ……。)
前世では勉強はあまり得意ではなかった。
テストが近づいてから慌てて教科書を開き、「もっと早く勉強しておけばよかった」と何度後悔したことだろう。
社会人になってからも、新しい資格の勉強を始めては三日坊主。
決して嫌いではないけれど、「勉強」と聞くと少し身構えてしまう。
けれど今は、その気持ちよりも楽しみの方が大きかった。
ここは日本とはまったく違う世界。
知らない文化。
知らない歴史。
知らない国々。
そして、魔法や妖精が語り継がれる不思議な世界。
(もっと知りたい。)
(この世界のことを。)
その想いは、庭でライトと話してからますます強くなっていた。
「少し緊張していらっしゃいますか?」
隣を歩くフィーネが優しく尋ねる。
「少しだけ。」
ミリアは照れくさそうに笑った。
「でも、それ以上に楽しみなんです。」
「それは素敵なことですね。」
フィーネは穏やかに微笑む。
「学ぶことは、お嬢様の世界を広げてくれます。焦らず、一つずつ覚えていけば十分ですよ。」
「はい!」
その言葉だけで、不思議と肩の力が抜けた。
長い廊下を歩きながら窓の外を見ると、午前中に散歩した庭園が見える。
色鮮やかな花々が風に揺れ、噴水の水面が太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
(ライトは今頃、何してるのかな。)
そう思った、その時だった。
「えへへ。」
聞き慣れた声が耳元で響く。
ふわり、と金色の光が舞い、小さな妖精が目の前へ飛んできた。
「ライト!」
思わず名前を呼びそうになり、ミリアは慌てて口元を押さえる。
フィーネは少し前を歩いているため、気付いていないようだ。
「やっぱり来ちゃった!」
ライトは照れくさそうに笑った。
「一人で待ってても退屈だったし。」
「それにね。」
目を輝かせながら続ける。
「ボクもお勉強してみたい!」
「えっ?」
ミリアは思わず小声になる。
「ライト、お勉強したことないの?」
「ないよ!」
あっさり答えるライト。
「妖精は学校なんてないもん。」
「そうなんだ。」
「だからね!」
嬉しそうに羽をぱたぱたさせる。
「ミリアと一緒にお勉強する!」
「初めてだから楽しみ!」
その無邪気な笑顔に、ミリアも自然と笑顔になった。
「でも、授業中は静かにしてね?」
「もちろん!」
ライトは勢いよく頷く。
「今日はちゃんとお利口さん!」
「本当に?」
「ほ、本当だよ!」
両手をぶんぶん振る姿が可笑しくて、ミリアは思わず吹き出しそうになる。
「お嬢様?」
フィーネが振り返る。
「何かございましたか?」
「あっ……いえ!」
ミリアは慌てて首を振る。
「今日はいいお天気だなって思って。」
「ええ。」
フィーネは窓の外へ目を向け、優しく微笑んだ。
「こんな日は、お勉強もはかどるかもしれませんね。」
「はい。」
ライトは胸をなで下ろした。
「危なかったぁ。」
「だから言ったでしょ。」
二人は目を合わせ、小さく笑い合う。
やがて廊下の突き当たりにある一枚の重厚な扉の前で、フィーネが足を止めた。
深い色合いの木で作られたその扉には、蔦や花々の美しい彫刻が施されている。
「こちらが勉強部屋でございます。」
「素敵……。」
思わず見とれてしまう。
フィーネは静かに扉を三度ノックした。
「ユーリ様、お嬢様をお連れいたしました。」
「どうぞ。」
落ち着いた青年の声が返ってくる。
ゆっくりと扉が開いた。
部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間、ミリアは思わず息を呑んだ。
「わぁ……。」
壁一面に並ぶ大きな本棚。
ぎっしりと並べられた分厚い本。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、本の背表紙を優しく照らしている。
机の上には地球儀によく似た球体や、羽ペン、インク壺がきちんと並べられ、部屋全体から知性と落ち着いた空気が感じられた。
「まるで……図書館みたい。」
思わずそう呟く。
「すごーい!」
ライトも目を丸くして本棚を見上げている。
「こんなに本があるなんて!」
もちろん、その声はミリアにしか聞こえない。
部屋の中央では、一人の青年が静かに本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
淡い栗色の髪。
澄んだ青い瞳。
知的で穏やかな雰囲気をまとった青年は、ミリアへ優雅に一礼する。
「初めまして、ミリアお嬢様。」
「私はユーリ・フェルールと申します。」
「奥様とは遠縁にあたり、本日よりお嬢様のお勉強を担当させていただきます。」
その落ち着いた声には、不思議と人を安心させる温かさがあった。
ミリアも教わった通り、スカートの裾を軽く持ち、丁寧にお辞儀をする。
「ミリア・テルファメートです。」
「よろしくお願いいたします。」
ユーリは穏やかな笑みを浮かべた。
「とても美しいご挨拶ですね。」
「少し体調を崩されたと伺っておりましたが、お元気そうなお姿を拝見できて安心いたしました。」
「ありがとうございます。」
緊張していた心が少しずつほぐれていく。
(優しそうな先生だな。)
そう思った瞬間、隣ではライトが嬉しそうに小さく頷いていた。
「うん!」
「ボク、この先生好きかも!」
ミリアは笑いそうになるのを必死でこらえながら、自分の席へと腰を下ろした。
第五話 はじめてのお勉強(中編)
ユーリは机の上に置かれていた一冊の分厚い本をゆっくりと開いた。
年季の入った革表紙の本からは、ほのかに紙とインクの香りが漂う。
「さて、本日最初のお勉強ですが――。」
ユーリは一枚目のページを開いた。
そこには、一枚の大きな地図が丁寧に描かれていた。
「まずは、私たちが暮らす世界について学びましょう。」
細く長い指が地図の中央を指し示す。
「ここが、私たちの暮らすタルトミア王国です。」
ミリアは思わず身を乗り出した。
「わぁ……。」
緑豊かな平原。
大きな森。
いくつもの川が流れ、青く輝く湖が点在している。
日本の地図とはまったく違う形。
それでも、自分が暮らす国だと思うと、不思議と胸が高鳴った。
「タルトミア王国は、自然の恵みに富んだ国です。」
「春には花々が咲き誇り、夏には豊かな緑が大地を覆います。秋には実りを迎え、冬には雪が山々を美しく彩ります。」
「四季があるんですね。」
思わず口にすると、ユーリは嬉しそうに頷いた。
「ええ。四季があるからこそ、人々は自然の変化を大切にしながら暮らしています。」
ページの端には、小さく農村や街の絵も描かれていた。
「この国では農業や酪農が盛んです。」
「陶芸や織物も各地で作られ、国内だけでなく周辺諸国へも運ばれています。」
「テルファメート領は、その中でも酪農が有名なのですよ。」
「牛乳やチーズがおいしいんです。」
ライトが目を輝かせる。
「チーズ!」
思わず大きな声を出しそうになり、自分で慌てて口を押さえた。
「……。」
ミリアは小さく笑う。
「好きなの?」
「大好き!」
ライトは何度も頷く。
「ふわふわのパンに、とろーり溶けたチーズ!」
「最高だよね!」
その幸せそうな表情につられて、ミリアも笑みがこぼれた。
「お嬢様?」
ユーリが首を傾げる。
「あっ、いえ。」
「チーズのお話を聞いていたら、お腹が空いてしまって。」
少し照れながら答えると、ユーリは穏やかに笑った。
「成長期ですから、それも当然ですね。」
部屋に優しい笑いが広がる。
ユーリは再び地図へ目を向けた。
「この国の東には、山岳地帯が広がっています。」
指がゆっくり東へ移動する。
「その先にあるのが、ダーガトーク王国です。」
ミリアはその名前を心の中で繰り返した。
(ダーガトーク王国……。)
「険しい山々に囲まれた国で、古くから騎士の育成に力を入れています。」
「剣術に優れた者が多く、勇敢な騎士を数多く輩出していることでも有名ですね。」
「騎士の国なんですね。」
「そのように呼ばれることもあります。」
ユーリは微笑んだ。
「もちろん農業や商業も行われていますが、国民の誇りは騎士である、と言われています。」
ライトは地図を覗き込みながら目を丸くする。
「へぇ~。」
「ボク、初めて知った!」
ミリアは小さく吹き出しそうになる。
「ライトも知らなかったんだ。」
「うん!」
「だから一緒にお勉強したかったんだもん!」
胸を張るライトに、ミリアは思わず頬を緩めた。
ユーリは続ける。
「南には海に面した国があり、漁業や貿易が盛んです。」
「西には広大な草原が広がり、多くの馬が育てられています。」
「それぞれの国が得意なものを活かし、交易を行うことで互いに支え合っているのです。」
「交易……。」
聞き慣れない言葉に、ミリアは首を傾げた。
「簡単に言えば、お互いの国で作った物を交換したり、売り買いしたりすることですよ。」
「例えば、タルトミアのチーズをダーガトークへ運び、代わりに良質な鉄や武具を譲ってもらう、といった具合です。」
「なるほど。」
ミリアは素直に頷いた。
前世でもスーパーには世界中の食べ物が並んでいた。
けれど、それがどんなふうに運ばれてきたのかを考えたことは、ほとんどなかった。
「国は、一つだけでは成り立ちません。」
「互いに支え合い、助け合うことで、人々の暮らしは豊かになっていくのです。」
その言葉は、どこか父リンフォルの考え方にも通じるような気がした。
ミリアは静かに頷く。
(知らないことって、こんなにたくさんあるんだ。)
ページをめくるたびに、新しい世界が目の前へ広がっていく。
勉強というより、まるで冒険をしているような気分だった。
ユーリは本をそっと閉じ、優しく微笑む。
「地理のお話は、このくらいにしておきましょう。」
「ここまでは、今のタルトミア王国についてのお話でした。」
そう言うと、机の上に置かれていたもう一冊の古びた本へ手を伸ばす。
表紙には、長い年月を感じさせる金色の文字が刻まれていた。
「さて――。」
ユーリは少しだけ表情を和らげる。
「ここから先のお話は、少し趣が変わります。」
ライトも興味津々で本を覗き込んだ。
(何が始まるんだろう。)
ミリアは自然と背筋を伸びるのだった。
ユーリは古びた本を両手で大切そうに開いた。
新しい教本とは違い、その本の紙は少し黄ばんでいて、何百年もの時を重ねてきたことがひと目で分かる。
「さて。」
ユーリは優しく微笑んだ。
「ここから先のお話は、歴史というよりも、古くから語り継がれてきた伝承になります。」
ミリアは首を傾げる。
「伝承……ですか?」
「ええ。」
ユーリはゆっくり頷いた。
「今からお話しする内容は、今でも絵本や昔話として親しまれているものです。」
「ですから、おとぎ話を聞くような気持ちで聞いてください。」
その言葉に、ライトが驚いたように目を丸くした。
「えぇっ?」
「おとぎ話じゃないのに……。」
小さく頬を膨らませる。
もちろん、その声はミリアにしか聞こえない。
ミリアは思わず苦笑した。
ユーリは本のページを一枚めくる。
そこには、大きな世界樹を囲むように、六人の妖精が描かれていた。
赤。
青。
緑。
茶。
白。
黒。
それぞれ異なる光をまとい、優しく微笑んでいる。
「古い伝承では、この世界には六柱の神がおられたと語られています。」
「そして神々は、それぞれの力を宿した六人の妖精を世界へ遣わしたと言われています。」
ライトはその絵をじっと見つめ、小さく呟いた。
「懐かしい……。」
どこか寂しそうな声だった。
ミリアは思わずライトへ視線を向ける。
「その妖精たちは、人々へ自然と共に生きる術を教え、豊かな実りを与えたと伝えられています。」
「雨を降らせ。」
「風を運び。」
「大地を育み。」
「火を灯し。」
「光で命を照らし。」
「闇によって夜へ安らぎを与えた――。」
ユーリは穏やかな口調で読み上げていく。
まるで本当に昔話を読み聞かせているようだった。
「しかし。」
ページが静かにめくられる。
「現在では、妖精を見たという確かな記録は残っていません。」
「昔の文献には何度も登場しますが、それらを証明するものは見つかっていないのです。」
「そのため、多くの学者は創作や神話の一つとして考えています。」
ミリアは静かに頷いた。
「だから、おとぎ話なんですね。」
「ええ。」
ユーリは優しく笑う。
「もちろん、中には『本当にいた』と信じ、生涯をかけて研究した学者もおります。」
「ですが、それを証明することは誰にもできません。」
その横で、ライトは腕を組みながら頬を膨らませていた。
「いるもん。」
「ここにいるもん。」
「証明できないだけなのに。」
ぶつぶつと小さく文句を言っている。
その姿がおかしくて、ミリアは吹き出しそうになる。
「お嬢様?」
「あっ……。」
慌てて口元を押さえる。
「す、すみません。」
「妖精さんたちの絵が、とても可愛らしくて。」
そう答えると、ユーリは穏やかに微笑んだ。
「確かに、昔の絵師は愛らしく描いておりますね。」
ライトは得意そうに胸を張る。
「でしょ!」
「本物の方がもっと可愛いけど!」
ミリアは笑いをこらえるのに必死だった。
ユーリは本を閉じる。
「伝承とは、不思議なものです。」
「真実かどうかは分からなくても、人々は長い年月、その物語を語り継いできました。」
「だからこそ、今でも絵本や祭りの中に、その名残が残っているのでしょう。」
ミリアは静かに頷く。
前世にも神話や昔話はたくさんあった。
子どもの頃は夢中で読んだけれど、大人になるにつれて「作り話」と思うようになっていた。
でも今は違う。
目の前には、本物の妖精がいる。
世界中の人が信じていなくても。
学者が否定していたとしても。
ライトは、確かにここにいる。
その事実を知っているのは、今のところ自分だけなのだ。
「今日はここまでにしましょう。」
ユーリは本を静かに閉じた。
「ありがとうございました!」
ミリアは立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ。」
ユーリは満足そうに微笑んだ。
「お嬢様は、とても話を聞くのがお上手ですね。」
「これからのお勉強が楽しみです。」
その言葉に、ミリアの表情も自然と明るくなる。
勉強は苦手だと思っていた。
だけど、この世界を知ることは、勉強というより冒険みたいだった。
部屋を出ると、ライトが嬉しそうにミリアの周りを飛び回った。
「お勉強って面白いね!」
「ねぇねぇ、次は何を勉強するのかな!?ボクも楽しみ!」
ミリアは思わず笑う。
「ふふっ。」
「一緒に頑張ろうね、ライト。」
「うん!」




