第二十三話 幕間 少しずつ縮まる二人の距離
──時は少しだけさかのぼる。
――ロナルド視点――
昼休みを知らせる鐘が、王立学院中に高らかに鳴り響いた。
カーン、コーン――。
教室中の生徒たちが一斉に立ち上がる中、俺は静かに教本を閉じた。
午前中は魔法理論と魔力制御の座学。
内容は決して難しくはない。だが、魔法とは基礎を積み重ねた者だけが、大きな力を扱えるようになる。
幼い頃から父上にも何度となく教えられてきたことだった。
教本を鞄へしまおうとした、その時――。
「今日は食堂へ行ってみませんか?」
エレノアの穏やかな声が教室に響く。
自然と視線を向けると、その先ではミリアがぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべていた。
「学院の食堂……!」
「まだ行ったことがないので、ぜひ行ってみたいです!」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
(……そんなに嬉しいのか。)
食堂へ行くだけ。
それだけのことなのに、まるで宝物でも見つけたように目を輝かせている。
そんな何気ない姿から、目が離せなかった。
(また見ているな……。)
心の中で小さく苦笑する。
王都で再会してからというもの、こんなことが増えた。
授業中も。
訓練中も。
ふとした瞬間も。
気付けば視線は、いつも彼女を追っている。
文通を続けていた頃は、手紙が届くだけで嬉しかった。
一文字一文字を何度も読み返し、返事を書く時間さえ楽しかった。
だが今は違う。
笑った顔も。
真剣に授業を受ける横顔も。
仲間と楽しそうに話す姿も。
すべてをこの目で見ることができる。
それだけで胸が満たされる自分がいた。
(……我ながら情けない。)
誰にも知られれば、きっと笑われるだろう。
第二王子ともあろう者が、一人の令嬢の笑顔一つで心を乱されているのだから。
だが、それでも構わないと思えるほど、彼女は俺の中で大きな存在になっていた。
そんなことを考えていると、フェイルが穏やかな笑みを浮かべながらミリアへ声を掛けた。
「私もご一緒してもよろしいでしょうか。」
「もちろんですわ。」
「ぜひ!」
柔らかな笑顔を向けるミリア。
その笑顔に自然と応えるフェイル。
二人の空気は穏やかで、見ているだけなら微笑ましい光景のはずだった。
それなのに――。
(フェイル殿は、本当に自然に話しかける。)
自然に話しかけ。
自然に笑わせ。
自然に隣へ立つ。
それが、妙に気になってしまう。
理由など考えるまでもない。
これは嫉妬だ。
そんな子どもじみた感情を抱く自分に、思わず苦笑する。
(情けないな……。)
フェイルは何も悪くない。
むしろ誠実で、人柄も良い。
だからこそ余計に、胸の奥が少しだけざわついた。
(俺は……。)
ほんの少しだけでいい。
あの笑顔を、もう少しだけ俺へ向けてほしい。
そんなことを願ってしまう。
その時だった。
「ロナルド様?」
不意にミリアが振り返る。
優しく首を傾げ、小さく微笑む。
「どうかされましたか?」
その視線が真っ直ぐ俺へ向けられた瞬間、心臓が一つ大きく脈を打った。
「……いや。」
「何でもない。」
そう答えるのが精一杯だった。
彼女は安心したように微笑み、ほっとした表情を見せる。
それだけで、不思議と先ほどまで胸を締め付けていた感情が少しずつほどけていく。
(君は、本当にずるい。)
何気ない笑顔一つで。
何気ない言葉一つで。
俺の心を簡単に乱してしまう。
けれど――。
それを本人は何一つ知らない。
いや、知らなくてもいい。
彼女はまだ、俺と同じ気持ちではない。
焦るつもりはなかった。
今はこうして、同じ時間を過ごせるだけで十分だ。
少しずつ。
本当に少しずつでいい。
彼女との距離を縮めていければ、それだけで――。
「ロナルド様?」
エレノアに呼ばれ、我に返る。
三人はすでに教室の出口でこちらを待っていた。
「ああ。」
静かに頷き、俺も歩き出す。
学院食堂へ向かう廊下は、昼休みを迎えた生徒たちで賑わっていた。
楽しそうな話し声があちこちから聞こえ、窓から差し込む春の陽射しが白い床を明るく照らしている。
俺は三人の少し後ろを歩きながら、その背中を静かに眺めていた。
先頭を歩くエレノア。
その隣で楽しそうに話すフェイル。
そして、その二人と笑い合うミリア。
「学院の食堂って、どんなところなんでしょう。」
期待に満ちた声が聞こえる。
「毎日たくさんのお料理が並びますのよ。」
「本当ですか!」
目を輝かせるミリアに、エレノアも嬉しそうに微笑んでいた。
(本当に表情が豊かだ。)
驚き。
喜び。
感心した時の顔。
ころころと変わるその表情を見ているだけで、不思議と心が和らぐ。
王城では、誰もが王族である俺へ遠慮して接してきた。
けれどミリアは違う。
身分ではなく、一人の友人として自然に笑いかけてくれる。
だからこそ、その笑顔を見ている時間が心地良かった。
食堂へ到着すると、香ばしいパンの香りと温かなスープの匂いが迎えてくれた。
「わぁ……。」
ミリアは小さく声を漏らし、辺りを見回している。
その姿は、まるで初めて王都へ来た子どものようだった。
(そんなに珍しいものなのか。)
思わず口元が緩む。
すると、フェイルが穏やかに話しかけた。
「パンも焼きたてで美味しいんですよ。」
「そうなんですね!」
また嬉しそうに笑う。
(また、フェイル殿か。)
胸の奥が少しだけざわつく。
フェイル殿もそんなつもりはない。
それは分かっている。
だが、自然に会話を続ける二人を見ていると、どうしても気になってしまう自分がいた。
(俺も……。)
何か話せばいい。
そう思うのに、なかなか言葉が出てこない。
昔から口数は多くない。
必要なことだけを伝えればいいと思って生きてきた。
けれど今は違う。
もっと話したい。
もっと笑わせたい。
そんな自分がいる。
料理を受け取り、四人で窓際の席へ腰を下ろした。
ミリアは運ばれてきたシチューを一口食べると、ぱっと表情を明るくする。
「美味しい……。」
「優しい味ですね。」
その一言だけで、料理人まで嬉しくなるのではないかと思えるほど、幸せそうな笑顔だった。
(本当に、美味しそうに食べるな。)
自然と視線が向く。
ミリアは焼きたてのパンを小さくちぎり、シチューへ浸して嬉しそうに頬張っていた。
その様子を見ているだけで、自分まで温かな気持ちになる。
「ロナルド様?」
突然エレノアに声を掛けられ、はっと我に返る。
「栄養も考えられている。」
慌てて口を開いた言葉は、そんな一言だった。
「鍛錬を続ける者には、ありがたい。」
「さすがロナルド様。」
エレノアがくすりと笑う。
「感想まで訓練目線ですのね。」
「……そうだろうか。」
三人が楽しそうに笑う。
その笑い声を聞きながら、俺も気付かぬうちに口元が緩んでいた。
すると、その様子を見たフェイルが驚いたように目を丸くする。
(しまった……。)
思わず表情を戻す。
だがもう遅かったらしい。
フェイルはどこか嬉しそうに微笑んでいた。
昼食は終始穏やかな空気のまま進んでいく。
ミリアはエレノアと花の話で盛り上がり、フェイルとは休日の過ごし方を楽しそうに語り合っていた。
その笑顔を見ながら、俺は改めて思う。
(こういう時間も……悪くない。)
鍛錬だけの日々では知ることのなかった時間。
仲間と笑い合い、同じ食卓を囲む時間。
そして、その中心にはいつもミリアがいる。
昼休みが終わりに近づく頃には、胸の奥にあった小さな嫉妬も、不思議と穏やかな気持ちへ変わっていた。
(もっと知りたい。)
彼女のことを。
好きなものも。
考えていることも。
笑顔の理由も。
◇◇◇
午後の授業を終えた学院は、少しずつ静けさを取り戻し始めていた。
教室では帰り支度をする者や、部活動へ向かう者たちが思い思いに過ごしている。
俺は鞄を肩に掛けると、誰にも告げることなく図書館へ向かった。
放課後の図書館は、俺のお気に入りの場所だった。
静かな空気。
本をめくる微かな音。
窓から差し込む夕日の柔らかな光。
どれも心を落ち着かせてくれる。
今日も魔法理論の本でも読もう。
そう思いながら館内へ足を踏み入れた、その時だった。
「あれ?」
静かな館内に、小さく澄んだ声が響く。
聞き慣れたその声に、俺は足を止めた。
ゆっくり振り返ると、本を胸に抱えたミリアが、少し驚いたようにこちらを見つめている。
「ロナルド様?」
思いがけない再会だった。
「ああ。」
短く答える。
だが胸の鼓動は、先ほどまでとはまるで違っていた。
(まさか……ここで会うとは。)
偶然。
それだけのことだ。
それなのに、胸の奥が少しだけ弾む。
「ロナルド様も図書館へ来られるんですね。」
「授業が終わると、時々来る。」
「そうなんですね。」
ミリアは嬉しそうに微笑んだ。
「実は私、学院の図書館へ来るのは初めてなんです。」
「今日は学院の中を少し歩いていたら、この図書館を見つけて。」
館内を見回すその瞳は、好奇心で輝いていた。
「すごいですね……。」
「こんなに本があるなんて。」
その無邪気な姿に、自然と口元が緩む。
「全部読むには何年かかるんだろう……。」
本気で考え込むような表情に、思わず笑みがこぼれた。
「全部読むつもりなのか?」
「え?」
きょとんとした顔でこちらを見るミリア。
その様子が可笑しくて、俺は小さく笑った。
「ふふっ。」
ミリアも照れくさそうに笑う。
「さすがに無理ですね。」
「でも、少しずつ読んでみたいです。」
「面白そうな本がいっぱいありますし。」
「ああ。」
「その考え方は嫌いではない。」
「本には、剣や魔法では得られない知識がある。」
俺がそう答えると、ミリアは嬉しそうに目を輝かせた。
「ロナルド様もそう思われるんですね!」
「知識は力になる。」
短く答える。
それだけで十分だった。
ミリアは何度も頷きながら本棚を見て回る。
植物。
歴史。
魔物。
精霊。
興味を惹かれた本を一冊一冊眺める姿は、まるで宝探しをしている子どものようだった。
(そんなに楽しいのか。)
見ているだけで、こちらまで穏やかな気持ちになる。
その時だった。
「あっ。」
ミリアが一冊の本を見つけ、背伸びをする。
棚の上段にある、分厚い魔法植物図鑑。
「もう少し……。」
何度も手を伸ばすが、あと少し届かない。
その姿を見ているうちに、身体が自然と動いていた。
「失礼する。」
ミリアの隣へ立ち、棚から図鑑を取り出す。
「はい。」
そっと差し出すと、ミリアはぱっと笑顔になった。
「ありがとうございます!」
その笑顔を見た瞬間――。
(やっぱり……。)
思ってしまう。
その笑顔を向けられるだけで、嬉しいと。
それだけで十分だと。
ミリアは嬉しそうに図鑑を受け取った。
だが、その本は思っていた以上に重かったらしい。
「わっ……。」
ぐらり、と身体が傾く。
その瞬間――。
「危ない。」
反射的に手を伸ばし、図鑑ごとミリアを支える。
二人の手が、一冊の本の上で重なった。
「あ……。」
思わず見つめ合う。
静かな図書館には、本をめくる音だけが静かに響いていた。
近い。
思っていた以上に近い距離だった。
ミリアは慌てて視線を逸らし、小さく頬を染める。
「す、すみません……。」
「思ったより重くて……。」
「気にするな。」
俺は静かに首を振った。
「怪我がなくてよかった。」
その一言に、ミリアは少しだけ安心したように微笑む。
「ありがとうございます。」
その笑顔を見ていると、自然と心がほどけていく。
(……やはり。)
(俺は、この笑顔に弱い。)
図書館を出る頃には、夕日が学院を茜色に染め始めていた。
ミリアは空を見上げ、嬉しそうに微笑む。
「まだ少し時間がありますね。」
「ああ。」
「じゃあ……。」
ミリアは少しだけ遠慮がちにこちらを見る。
「学院を少し歩いてみませんか?」
一瞬だけ驚く。
だが、その誘いを断る理由などなかった。
「付き合おう。」
そう答えると、ミリアはほっとしたように笑った。
二人は並んで歩き始める。
夕暮れの校舎は昼間とは違い、どこか穏やかな空気に包まれていた。
窓から差し込む夕日。
春風に揺れる若葉。
遠くから聞こえる部活動の掛け声。
何気ない景色さえ、今日は少しだけ特別に感じる。
「こうして歩いていると、学院って本当に広いですね。」
ミリアは足を止め、大きく息を吸い込んだ。
「毎日急いで移動していたので、こんなにゆっくり景色を見るのは初めてかもしれません。」
「ああ。」
俺も隣に立ち、夕日に照らされた中庭へ目を向ける。
「授業の合間には気付かない景色もある。」
「そうですね。」
ミリアは花壇へ歩み寄る。
色とりどりの花々を眺め、小さく目を細めた。
「きれい……。」
春風が吹き抜け、一枚の白い花びらが舞い落ちる。
ミリアはしゃがみ込み、それを大切そうに掌へ乗せた。
「こういう景色を見ると、自然と笑顔になれます。」
夕日に照らされた横顔は、とても穏やかだった。
その姿を見つめながら、思う。
(花が好きだと言っていたな。)
花を見つめる彼女の表情は、本当に幸せそうだった。
そんな顔を見ていると、不思議とこちらまで心が安らぐ。
「ロナルド様?」
視線に気付いたのか、ミリアが首を傾げる。
「どうかされましたか?」
「……いや。」
小さく首を振る。
「花を見ている時のお前は、楽しそうだと思っただけだ。」
その言葉に、ミリアは少し照れくさそうに笑う。
「そうですか?」
「はい。昔から、お花を見るのが好きなんです。」
「見ているだけで元気をもらえる気がして。」
「そうか。」
短く返事をする。
だが、その言葉は心の奥へ静かに刻まれていた。
(覚えておこう。)
(花が好きなのだな。)
もっと知りたい。
好きなものも。
嬉しいと思うことも。
少しずつでいい。
これから知っていければ、それでいい。
歩いているうちに、学院の正門が見えてきた。
迎えの馬車が到着する時間だった。
「今日は図書館へ来て良かったです。」
ミリアが笑顔を向ける。
「一人だったら、こんなにゆっくり学院を歩くこともありませんでした。」
「こちらこそ。」
自然と言葉がこぼれる。
「悪くない時間だった。」
その一言に、ミリアは満面の笑みを浮かべた。
「また時間があったら、一緒に学院を歩きましょう。」
「ああ。」
迷うことなく頷く。
「約束だ。」
「はい!」
その笑顔を見つめながら、俺も自然と微笑んでいた。
少し離れた校舎の窓辺では、二人の精霊がその様子を見守っていた。
『ふふっ。』
ライトが嬉しそうに羽を揺らす。
『ロナルド、最近すっごく笑うようになったね!』
『前はあんな顔、全然しなかったのに!』
シルビィは穏やかな眼差しで主を見つめ、小さく頷く。
『ええ。』
『ミリア様とご一緒の時は、とても自然な笑顔をされています。』
『やっぱり二人はお似合いだよね!』
無邪気にはしゃぐライトに、シルビィは優しく微笑む。
『……その未来を決めるのは、お二人です。』
『ですが、主があのように穏やかに笑われる姿を、私はこれからも見守っていきたいと思います。』
『ぼくも!』
二人の精霊は顔を見合わせ、くすりと笑い合った。
夕日に染まる王立学院。
仲間として育まれる絆。
そして、それとは少し違う、二人だけの穏やかな時間。
まだ誰も知らない、小さな約束が一つ増えた。
それが、やがて二人の未来を優しく結ぶ、大切な一歩になることを――。




