第十七話 見えるはずのない存在
春の朝日が、タルトミア王立学院の校舎を優しく照らしていた。
昨日、入学式を終えたばかりの学院は、どこか新しい空気に包まれている。
今日からはいよいよ本格的な講義が始まる。
期待と少しの緊張を胸に、ミリアは学院へ続く石畳を歩いていた。
『今日からお勉強だね!』
肩の上をふわふわと飛びながら、ライトが楽しそうに笑う。
「そうね。」
「ちゃんとついていけるといいんだけど……。」
『大丈夫、大丈夫!』
『ミリアなら絶対できるよ!』
根拠のない励ましなのに、不思議と安心できる。
ミリアはくすりと笑った。
「ありがとう、ライト。」
学院の門をくぐると、昨日よりも多くの生徒たちが行き交っていた。
まだ少しぎこちない挨拶を交わす者。
昨日知り合った友人と楽しそうに話す者。
皆、それぞれ学院生活の始まりを迎えている。
「おはようございます。」
ミリアもすれ違う同級生へ笑顔で挨拶を返しながら、自分の教室へ向かった。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についている。
昨日と同じ席へ向かおうとした、その時だった。
「おはようございます、ロナルド様。」
窓際の席に座るロナルドへ自然と声を掛ける。
ロナルドは本から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「ああ、おはよう、ミリア嬢。」
その瞬間――。
「……えっ?」
ミリアの視線が、ロナルドの肩で止まる。
そこには、小さな黒い精霊が静かに腰掛けていた。
漆黒の羽。
夜空を思わせる銀色の長い髪。
金色の瞳が穏やかにミリアを見つめている。
(精霊……!?)
驚きに息を呑むミリア。
一方のロナルドもまた、言葉を失っていた。
彼の視線の先には、ミリアの肩で楽しそうに羽を揺らすライト。
昨日まで見えなかったはずの光の精霊。
シルビィから聞いた言葉が脳裏をよぎる。
――契約者同士は、互いの精霊を認識することができます。
(ということは……。)
考えを巡らせるよりも早く、教室へ元気いっぱいの声が響いた。
『あーーーーっ!!』
ライトだった。
『あの時の妖精さん!!』
勢いよく飛び出したライトへ、黒い精霊は穏やかに微笑む。
『お久しぶりです、ライト。』
『ちゃんと契約できたんだね!』
『ええ。』
黒い精霊は静かに頷いた。
『あなたが見守ってくださったおかげで、無事にロナルド様と契約することができました。』
『よかったぁ!』
ライトは心の底から嬉しそうに笑う。
『ずっと気になってたんだもん!』
その様子を見ていたミリアは、驚いたままライトへ尋ねた。
「ライト……知り合いだったの?」
『うん!』
『前に一度だけお話ししたことがあるんだ!』
黒い精霊はロナルドの肩から静かに舞い上がると、ミリアの前で優雅に一礼した。
『改めまして、ミリア様。』
『私は闇の精霊、シルビィと申します。』
『現在はロナルド様と契約し、お側でお力添えをしております。』
「闇の……精霊。」
ミリアは小さく呟く。
ライト以外にも精霊がいた。
しかも、自分と同じように人と契約を交わしている精霊が。
『そうそう!』
ライトがぱっと笑顔になる。
『前に会った時、名前聞いてなかったんだよ!』
シルビィは少しだけ目を細め、穏やかに答えた。
『当然です。』
『あの時の私は、まだ契約前でしたので。』
『……あっ。』
ライトは目を丸くしたあと、照れくさそうに頭をかく。
『そっか!』
『えへへ、忘れてた!』
『相変わらずですね。』
シルビィが小さく笑うと、ライトもつられて笑顔になる。
『えへへー!』
二人のやり取りに、ミリアの表情も自然と和らいだ。
一方、ロナルドは静かにシルビィへ視線を向ける。
「シルビィ。」
「昨日、言っていたな。」
「契約者同士は、互いの精霊を認識できるようになる、と。」
『はい。』
シルビィは静かに頷く。
ロナルドは改めてライトを見つめ、それからミリアへ視線を移した。
「……ということは。」
「ミリア嬢も、私と同じ契約者だったのですね。」
穏やかな口調だった。
しかし、その瞳には隠しきれない驚きが宿っている。
ミリアも小さく頷いた。
「はい……。」
「私も、ロナルド様が精霊と契約されていたなんて知りませんでした。」
互いに驚きながら見つめ合う二人。
その空気を壊さないように、ライトとシルビィも静かに微笑み合う。
――自分だけではなかった。
その事実が、二人の胸に不思議な安心感をもたらしていた。
その時だった。
教室の扉が静かに開く。
「皆さん、おはようございます。」
担任教師の挨拶が終わると、教室は静けさに包まれた。
学院生活二日目。
最初の講義は、学院で学ぶ心構えについてだった。
歴史ある学院の教え。
礼節を重んじる心。
貴族としての在り方。
教師の落ち着いた声が教室へ響く。
ミリアも真剣に耳を傾けていた。
けれど、どうしても気になってしまう。
(ロナルド様も……契約者だったんだ。)
ふと視線を上げる。
すると、ロナルドも同じようにこちらを見ていた。
「……っ。」
二人はほぼ同時に視線を逸らす。
その様子に、ライトは小さく笑った。
『ミリア、また見ちゃった。』
「も、もう……。」
ミリアは小さな声で抗議する。
『だって、本当のことだもん。』
ライトは悪びれる様子もなく笑った。
その隣では、シルビィが静かにロナルドを見上げている。
『ロナルド様。』
「……どうした。」
『講義に集中なさってください。』
「……ああ。」
ロナルドは小さく咳払いをすると、教壇へ視線を戻した。
その様子を見て、ライトは思わず吹き出す。
『二人とも同じだね。』
『そうですね。』
シルビィも穏やかに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
最初の講義が終わり、教室の空気が少しだけ和らぐ。
生徒たちは友人同士で話し始め、それぞれ講義の感想を口にしていた。
ミリアはそっとロナルドの方へ目を向ける。
(今なら、お話しできるかな……。)
立ち上がろうとした、その時だった。
「ロナルド様。」
担任教師が教室へ声を掛ける。
「学院長がお呼びです。」
「少々、お時間をいただけますか。」
「承知しました。」
ロナルドは静かに立ち上がる。
教室を出る前、ミリアと目が合った。
ほんの少し申し訳なさそうに微笑み、一礼する。
ミリアも小さく微笑み返した。
けれど、それだけだった。
『ありゃりゃ。』
ライトが肩を落とす。
『また話せなかったね。』
「仕方ないわ。」
ミリアは小さく笑う。
「学院長がお呼びなら、大切なお話でしょうし。」
◇ ◇ ◇
次の講義も終わり、生徒たちは再び思い思いに席を立つ。
ロナルドも学院長室から戻り、教室へ姿を見せた。
その姿を見つけたミリアは、今度こそと歩き出す。
しかし――。
「ミリア様。」
教室の入口から学院職員が声を掛けた。
「テルファメート侯爵家より、お届け物を預かっております。」
「お父様から……ですか?」
「はい。」
「恐れ入りますが、ご確認をお願いいたします。」
「分かりました。」
ミリアは申し訳なさそうにロナルドを見る。
ロナルドは優しく微笑み、小さく頷いた。
「お気になさらず。」
「ご用事を優先してください。」
「ありがとうございます。」
ミリアは軽く頭を下げ、職員とともに教室をあとにした。
『まただねぇ。』
ライトが苦笑いを浮かべる。
『今日は、なかなかお話しできませんね。』
シルビィが静かに呟く。
『でも、大丈夫!』
ライトはすぐに笑顔を取り戻した。
『きっと今日中にお話しできるよ!』
『ええ。』
『私も、そのような気がいたします。』
シルビィの穏やかな言葉に、ライトは大きく頷いた。
◇ ◇ ◇
その後も講義は滞りなく進み、気付けば窓の外は夕暮れ色へと染まり始めていた。
その日の講義がすべて終わると、生徒たちは一斉に帰り支度を始める。
友人たちと談笑しながら帰路につく者。
寮へ戻る者。
馬車乗り場へ向かう者。
賑やかな教室の中で、ミリアも静かに鞄を手に取った。
その時だった。
「ミリア嬢。」
聞き慣れた穏やかな声が耳に届く。
振り返ると、そこにはロナルドが立っていた。
「今日は、何度もお話しする機会を逃してしまいました。」
少し照れくさそうに微笑みながら続ける。
「もしご迷惑でなければ……。」
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
その言葉に、ミリアはふわりと笑みを浮かべた。
「もちろんです。」
二人は静かに教室をあとにした。
並んで教室をあとにした二人は、ゆっくりと学院の回廊を歩いていた。
窓から差し込む夕陽が石造りの廊下を茜色に染め、春風が優しく吹き抜けていく。
学院に残る生徒たちの話し声も、ここまで来ると遠く聞こえるだけだった。
しばらくは、お互いに何を話そうか迷っていた。
『あれ?』
ライトが首をかしげる。
『やっと二人でお話しできるようになったのに、また静かだね。』
『緊張されているのでしょう。』
シルビィが穏やかに微笑む。
『話したいことが多い時ほど、最初の一言は難しいものです。』
『へぇ~。』
ライトは感心したように頷く。
『……ロナルド様もミリアも、まだ子どもだけどね!』
『あっ!』
『そうだった!』
ライトは照れ笑いを浮かべる。
そのやり取りに、ミリアは思わず吹き出した。
「ふふっ。」
その笑顔を見たロナルドも、自然と口元を緩める。
「ライトは、本当に明るい精霊ですね。」
「はい。」
ミリアは優しく頷いた。
「いつも私を元気づけてくれるんです。」
『えっへん!』
ライトは得意そうに胸を張る。
『ボクはミリアを笑顔にする係だからね!』
ロナルドは真剣な表情で小さく頷いた。
「……なるほど。」
少しだけ考え込むように視線を落とす。
「ですが、その役目は――」
「え?」
ミリアが不思議そうに首をかしげる。
ロナルドは我に返ったように咳払いをした。
「……いえ。」
「何でもありません。」
『??』
ライトは首を傾げる。
その横で、シルビィだけが静かに微笑んでいた。
『ロナルド様。』
『最後までおっしゃらなくても、よろしかったのですか?』
「……シルビィ。」
ロナルドは少し困ったように視線を逸らす。
シルビィは悪びれる様子もなく、小さく一礼した。
『失礼いたしました。』
「何のお話だったのですか?」
ミリアが尋ねる。
「……本当に、大したことではありません。」
少しだけ耳を赤くしたロナルドを見て、ライトが吹き出した。
『変なロナルド!』
『えへへ♪』
その無邪気な笑い声につられ、ミリアも笑みをこぼす。
「あはは。」
四人の間に、穏やかな空気が流れた。
ひとしきり笑ったあと、ロナルドは改めてミリアへ向き直る。
「ミリア嬢。」
「はい。」
「今日は、お話しすることができて本当に良かったです。」
「私もです。」
ミリアは嬉しそうに微笑んだ。
「昨日までは、私だけの秘密だと思っていました。」
「まさか、同じクラスに契約者がいたなんて……。」
「ああ。」
ロナルドも静かに頷く。
「私も同じ気持ちです。」
「これから学院生活を送る中で、契約者として話せる相手がいることを、とても心強く思います。」
その言葉に、ミリアは自然と笑顔になった。
「私も、そう思います。」
『やったぁ!』
ライトは嬉しそうに空をくるくる飛び回る。
『これからもっと楽しくなりそうだね!』
『ええ。』
シルビィも穏やかに頷く。
『学院では、契約者との新たな出会いもあるでしょう。』
『これからが楽しみですね。』
『そうだね!楽しみだね、ミリア!』
「ふふっ、そうね。」
ミリアの返事に、ロナルドも静かに微笑む。
春風が四人の間を優しく吹き抜ける。
今日知った新たな秘密は、不思議と二人の距離を少しだけ近づけてくれていた。
四人は学院の正門へと続く石畳を、ゆっくりと歩いていた。
穏やかな時間が流れる中、ミリアはふとシルビィへ視線を向けた。
「シルビィさん。」
『はい。』
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
『もちろんでございます。』
「シルビィさんは……いつからロナルド様を見守っていたのですか?」
シルビィは空を見上げ、優しく微笑んだ。
『ロナルド様がお生まれになった日からでございます。』
「生まれた時から……。」
ミリアは驚いたように呟く。
ロナルドもまた、静かにシルビィを見つめていた。
『ですが、それは私だけではございません。』
『精霊は皆、契約の可能性を持つ方のおそばで、その時が訪れる日まで静かに見守っています。』
「それじゃあ……。」
ミリアは肩にいるライトへ目を向ける。
ライトは少し照れくさそうに笑った。
『うん。』
『ボクも、ずっとミリアのこと見守ってたよ!』
『だからね……。』
ライトは満面の笑みを浮かべる。
『ミリアがボクを見つけてくれた時、本当に嬉しかったんだ!』
『やっと会えたー!って思ったもん!』
その無邪気な言葉に、ミリアの胸がじんわりと温かくなる。
優しくライトを見つめ、そっと微笑んだ。
「私もよ。」
「ライトに出会えて、本当に良かった。」
『えへへー♪』
ライトは嬉しそうにミリアの周りをくるくると飛び回る。
その様子を見ていたロナルドは、自然と頬を緩めた。
シルビィが静かに口を開く。
『契約とは、始まりに過ぎません。』
『これから互いを知り、信じ合いながら、少しずつ絆を育んでいくものです。』
ロナルドはその言葉を噛みしめるように頷いた。
「ああ。」
「私も、シルビィとそのような関係を築いていきたい。」
『はい。』
『これから、どうぞよろしくお願いいたします。』
学院の正門が見えてきた、その時だった。
「あれ……?」
ミリアが掲示板の前に集まる生徒たちへ目を向ける。
「何か貼り出されていますね。」
四人は自然と足を止めた。
掲示板には、新しく一枚の羊皮紙が掲げられている。
――新入生歓迎会のお知らせ。
来週、本館大広間にて新入生歓迎会を開催する。
初等部・中等部・高等部の生徒が集い、新入生の門出を祝う交流会とする。
「歓迎会……。」
ミリアは少し緊張したように呟く。
「高等部の皆さんもいらっしゃるんですね。」
「ああ。」
ロナルドは静かに頷く。
「きっと、多くの出会いが待っているのでしょう。」
『楽しみだね!』
ライトは目を輝かせる。
『新しいお友達がいっぱいできるかな!』
『ライトは、お友達より先に食事へ向かいそうですが。』
シルビィが穏やかな口調で言う。
『えへへ……。』
『だって歓迎会だもん!』
『美味しいもの、いっぱいありそうじゃない?』
胸を張って答えるライトに、ミリアは吹き出した。
「あははっ。」
ロナルドも小さく笑みをこぼす。
新しい学び。
新しい仲間。
そして、新たな出会い。
来週開かれる歓迎会が、さらに大きな縁を運んでくることを、この時の四人はまだ知らなかった。




