第十話 小さな約束
「それでは、ロナルド殿下。よろしければ、当家の庭園をご案内いたします。」
ミリアが小さく一礼すると、ロナルドは穏やかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください。」
扉をくぐると、爽やかな風が頬をなでる。
青空の下、色とりどりの花々が咲き誇り、石畳の小道の先には手入れの行き届いた木々が優しく枝を揺らしていた。
「……今日も綺麗。」
思わずこぼれたミリアの言葉に、ロナルドも景色を見渡しながら目を細める。
「本当に見事なお庭ですね。」
「季節の花々が、とても生き生きとしています。」
「ありがとうございます。」
ミリアはどこか誇らしげに微笑んだ。
「庭師の皆さんが毎日大切に手入れをしてくださっているんです。」
二人は並んで歩き始める。
しばらくは花々を眺めながら、穏やかな時間が流れていた。
やがてロナルドが、少し照れくさそうに口を開く。
「……テルファメート令嬢。」
「はい、ロナルド殿下。」
「一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
ロナルドは少しだけ視線を落とし、それから柔らかく微笑んだ。
「これからは、ミリア嬢とお呼びしてもよろしいでしょうか。」
「名字でお呼びするより、その方が親しくお話しできるような気がして……。」
思いがけない申し出に、ミリアは目を丸くする。
けれど、その表情はすぐに花がほころぶような笑顔へと変わった。
「もちろんです。」
「そう呼んでいただけたら、私も嬉しいです。」
「ありがとうございます。」
ロナルドはほっとしたように笑う。
「では、改めまして……ミリア嬢。」
その呼び方は、先ほどまでの「テルファメート令嬢」よりも少しだけ温かく感じられた。
するとロナルドは続けて、少し照れたように笑う。
「それと、もう一つ。」
「私のことも、ロナルドと……いえ、無理であればロナルド様でも構いません。」
ミリアは驚いたように目を瞬かせた。
「よろしいのですか?」
「もちろんです。」
「殿下と呼ばれるのも慣れておりますが、こうして庭園をご一緒している間くらいは、もう少し肩の力を抜いてお話ししたいのです。」
その言葉に、ミリアは自然と笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。」
「では……ロナルド様。」
少し照れながら名前を口にすると、ロナルドも嬉しそうに微笑む。
「はい、ミリア嬢。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
ほんの少し呼び方が変わっただけ。
それだけなのに……
二人は穏やかな空気に包まれながら歩き始める。
ロナルドはそっとポケットへ触れた。
(……でも、まだ早いかな。)
「ロナルド様は、お花がお好きなのですか?」
ミリアが尋ねると、ロナルドは庭園を見渡しながら優しく頷いた。
「はい。とても好きです。」
「叔父上が植物にお詳しく、幼い頃からよく庭園を散策しておりました。」
「花や木の名前を教えていただいたり、季節によって景色が少しずつ変わることを教わったり……。」
懐かしそうに語る横顔には、植物への愛情が自然とにじんでいた。
「最初は難しいお話も多かったのですが、不思議と嫌ではなかったんです。」
「気づけば、私も庭へ出るのが楽しみになっていました。」
「素敵ですね。」
ミリアは優しく微笑む。
「私もこの庭が大好きなんです。」
「毎日見ていても、新しい発見がありますもの。」
「そのお気持ち、とてもよく分かります。」
ロナルドは嬉しそうに頷いた。
「植物は昨日と今日で少しずつ姿を変えています。」
「その小さな変化に気づけた日は、何だか得をした気持ちになるんです。」
その言葉に、ミリアはくすりと笑った。
「ふふっ。」
「ロナルド様らしい考え方ですね。」
ロナルドは少し照れたように笑う。
「叔父上にも、よく同じことを言われます。」
二人の笑い声は、優しく吹き抜ける風に乗って庭園へ溶けていった。
そのまま花壇の間をゆっくりと歩きながら、庭園の奥へと向かった。
石畳の先には白い東屋が建ち、その周囲には色とりどりの薔薇が美しく咲き誇っている。
優しい風が吹くたび、甘い香りがふわりと漂った。
「こちらは母のお気に入りの場所なんです。」
ミリアは東屋へ視線を向ける。
「天気の良い日は、お茶をいただいたり、本を読んだりして過ごしています。」
「とても落ち着く場所ですね。」
ロナルドは柔らかく微笑んだ。
「この景色を眺めていると、時間まで穏やかに流れているように感じます。」
「私もそう思います。」
ミリアは嬉しそうに頷く。
「だから、つい長居してしまうんです。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
その時だった。
「ミリアお嬢様。」
花壇の手入れをしていた年配の庭師が帽子を取り、一礼する。
「本日も庭園をご案内でございますか。」
「ええ。」
ミリアは微笑みながら頷いた。
「こちらはダーガトーク王国からお越しのロナルド様です。」
「ようこそお越しくださいました、ロナルド様。」
庭師は丁寧に頭を下げる。
「この庭をご覧いただけて、大変光栄でございます。」
「こちらこそ。」
ロナルドも礼を返した。
「どの花も、とても大切に育てられていることが伝わってきます。」
「皆様のお仕事の賜物ですね。」
庭師は少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「そのようなお言葉をいただけると、苦労も報われます。」
ふとロナルドの視線が、一輪の花に留まる。
少し葉が下を向いている小さな花だった。
「暑さの影響でしょうか。」
「はい。」
庭師は頷く。
「ここ数日の日差しで少し弱ってしまいまして。」
「それでも毎朝、元気になってくれるよう願いながら世話をしております。」
ロナルドはその花を優しく見つめた。
「きっと、その想いは届いています。」
「植物は言葉を話しませんが、大切にされていることは分かっている気がします。」
その言葉に、庭師は目を細めた。
「……ありがとうございます。」
「長く庭師をしておりますが、そのようなお言葉をいただいたのは初めてかもしれません。」
ロナルドは少し照れたように笑う。
「叔父上が、昔よく仰っていたんです。」
『植物だけではなく、育てる人にも目を向けなさい。』
「その言葉が、私はとても好きなんです。」
ミリアは静かにロナルドを見つめた。
(素敵な考え方だな……。)
その教えを素直に受け止め、大切にしているロナルド自身にも心を惹かれた。
「ロナルド様。」
ミリアがふと声をかける。
「はい、ミリア嬢。」
「私……ロナルド様のお話、好きです。」
「お花のお話なのに、人の温かさまで伝わってくる気がします。」
一瞬、ロナルドは驚いたように目を見開いた。
「そのようなお言葉をいただいたのは、初めてかもしれません。」
ロナルドは照れくさそうにはにかむ。
「……ありがとうございます。少し照れてしまいますね。」
その笑顔につられるように、ミリアも微笑んだ。
二人の様子を見ていた庭師は、どこか安心したように目を細める。
「お二人とも、本当に花がお好きなのですね。」
「花もきっと、お二人に見てもらえて喜んでおります。」
穏やかな風が吹き抜け、薔薇の花びらがひらりと舞い上がる。
その花びらを目で追いながら、二人は再び歩き始めた。
先ほどよりも肩の力は抜け、会話も自然と弾んでいく。
庭師に見送られた二人は、庭園のさらに奥へと歩みを進めた。
ゆるやかな坂道を上ると、小高い丘へとたどり着く。
そこから見下ろす庭園は、まるで一枚の絵画のようだった。
色鮮やかな花々が風に揺れ、木々の緑が優しく陽の光を受けて輝いている。
「わぁ……。」
ロナルドは思わず声を漏らした。
「ここから見る景色、私とても好きなんです。」
ロナルドが隣に立ち、静かに景色を見渡す。
「本当に素晴らしいですね。」
「花だけではなく、お屋敷や森まで一望できます。」
しばらくの間、二人は何も話さず景色を眺めていた。
その沈黙は、不思議と気まずさを感じさせない。
ただ風の音と、小鳥のさえずりだけが耳に届く。
「ロナルド様。」
「はい。」
「ダーガトーク王国にも、こんな場所はあるのですか?」
ロナルドは少し考えてから頷いた。
「あります。」
「私の住む離宮の近くにも、小さな丘があるんです。」
「春になると花が咲き、夏は青々とした草原になります。」
「叔父上と、よく散歩へ行きました。」
その話を聞きながら、ミリアは目を輝かせた。
「行ってみたいです。」
「きっと素敵な景色なんでしょうね。」
「はい。」
ロナルドは優しく笑う。
「いつか、ご覧いただけたら嬉しいです。」
その何気ない言葉に、ミリアも自然と笑みを返した。
「その時は、ぜひ案内してください。」
「喜んで。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その笑顔は、朝に出会った頃よりもずっと自然だった。
ふと、一羽の白い小鳥が近くの枝へ舞い降りる。
「可愛い……。」
ミリアが小さく呟くと、小鳥は首をかしげるように二人を見つめている。
ロナルドもその姿に目を細めた。
「警戒していないようですね。」
「この庭が安心できる場所なのでしょう。」
すると小鳥は、ぴょんと枝を移り、楽しそうにさえずった。
その愛らしい姿に、二人は思わず笑みをこぼす。
「なんだか、お話ししているみたい。」
「そうですね。」
「歓迎してくれているのかもしれません。」
風がふわりと吹き抜ける。
その瞬間、一枚の花びらが舞い上がり、ミリアの髪へそっと降りた。
「あっ……。」
ミリアが気づくより早く、ロナルドは少しだけ手を伸ばす。
「失礼します。」
花びらを指先でそっと摘み取り、掌へ乗せた。
「付いていました。」
「あ……ありがとうございます。」
ミリアは少し照れくさそうに微笑む。
「今日は風が気持ちいいですね。」
照れ隠しのようにそう言うと、ロナルドも優しく頷いた。
「はい。」
「こんな日は、時間がゆっくり流れてほしいと思います。」
その一言に、ミリアの胸はほんの少しだけ温かくなった。
(ロナルド様といると、不思議と落ち着く。)
(まだ今日出会ったばかりなのに……。)
そんなことを考えていると、ロナルドはポケットへそっと手を添えた。
そこには、朝から大切に持ち歩いている小さな包みがある。
(……まだ早いかな。)
(でも、帰る前には渡したい。)
ロナルドは、ポケットに入れていた小さな包みを握りしめる。
その中には、一羽の小さな木彫りの小鳥が静かに眠っていた。
小高い丘をあとにした二人は、ゆっくりと屋敷へ向かって歩き始めた。
庭園を吹き抜ける風はどこまでも穏やかで、色とりどりの花々が二人を見送るように揺れている。
「今日は、本当に楽しかったです。」
ミリアが微笑むと、ロナルドも優しく頷いた。
「私もです。」
「こんなにも心安らぐ時間を過ごせるとは思っておりませんでした。」
二人は歩みを進めながら、自然と笑みを交わす。
朝は緊張していたはずなのに、今では会話が途切れても気まずさはなかった。
その沈黙さえ心地よく感じられる。
やがて屋敷が見えてきた頃、ロナルドは足を止めた。
「ミリア嬢。」
「はい。」
少しだけ緊張した面持ちで、ロナルドは小さな包みを取り出した。
「こちらを、お受け取りいただけますでしょうか。」
「私に……ですか?」
「はい。」
「本日のお礼です。」
ミリアは驚きながらも、両手で大切そうに受け取る。
「開けてもよろしいですか?」
「もちろんです。」
包みを開くと、中には一羽の小鳥を模した美しい木細工が入っていた。
木目の美しさを生かした優しい色合い。
羽の一本一本まで丁寧に彫られており、今にも羽ばたきそうなほど繊細な細工だった。
「まぁ……。」
ミリアは思わず息を呑む。
「とても綺麗……。」
光にかざすように見つめると、木の温もりが手のひらに優しく伝わってきた。
「ダーガトークには、木工細工で有名な職人がおります。」
ロナルドは穏やかに話し始める。
「旅へ出る前、叔父上と一緒に贈り物を選びました。」
「焼き菓子や栞もございますが、この小鳥を見た時、いつか仲良くなれた方へ贈りたいと思ったのです。」
少し照れくさそうに笑ってから、ロナルドはミリアを真っすぐ見つめた。
「どなたにお渡しするかは決めておりませんでした。」
「ですが……。」
一呼吸置いて、静かに言葉を続ける。
「今日、ミリア嬢とお話ししていて、もっとお話ししたいと思いました。」
「だから、この小鳥はミリア嬢に受け取っていただきたいのです。」
その真っ直ぐな言葉に、ミリアの胸がじんわりと温かくなる。
今日初めて出会ったばかり。
それでも、この出会いを大切に思ってくれている。
その気持ちが何より嬉しかった。
ミリアは木細工を胸元でそっと抱きしめる。
「ありがとうございます、ロナルド様。」
「とても嬉しいです。」
「大切にします。」
その笑顔を見たロナルドは、ほっとしたように表情を和らげた。
「喜んでいただけて安心しました。」
「ダーガトークの職人も、きっと喜ぶと思います。」
二人は顔を見合わせ、自然と微笑み合った。
屋敷の玄関前では、すでにテルファメート侯爵夫妻と、エルディオが二人を待っていた。
「お帰りなさいませ。」
ミルティアが優しく微笑む。
「庭園はいかがでしたか?」
「とても素敵でした。」
ロナルドは丁寧に一礼した。
「これほど美しく手入れされた庭園は、初めて拝見いたしました。」
「ミリア嬢のおかげで、とても楽しい時間を過ごすことができました。」
その言葉に、ミリアは少し照れくさそうに笑う。
「素敵な思い出になりました。」
エルディオは二人の穏やかな表情を見比べ、小さく口元を緩めた。
(どうやら、心配はいらなかったようだ。)
朝は少し緊張していた甥が、今では自然な笑顔を見せている。
それだけで、この訪問は十分な実りがあったのだと感じていた。
「ロナルド様。」
「はい、叔父上。」
「そろそろ失礼しよう。」
「承知いたしました。」
ロナルドは名残惜しそうに庭園へ目を向け、それからミリアへ向き直る。
「ミリア嬢。」
「今日は、本当にありがとうございました。」
「こちらこそ。」
「ロナルド様とご一緒できて、とても嬉しかったです。」
二人は自然と笑みを交わした。
ほんの数時間前まで、初めて会う相手だったとは思えないほど穏やかな空気が流れている。
ロナルドは静かに一礼した。
「また、お会いできますでしょうか。」
その言葉に、ロナルドは迷うことなく頷く。
「もちろんです。」
「私も、またミリア嬢とお話ししたいです。」
その返事を聞いたミリアの表情が、ぱっと明るくなった。
ロナルドは、照れたように笑った。
ミリアは胸元の木細工へそっと触れる。
「大切にしますね。」
ロナルドは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。」
エルディオが馬車へ歩き出すと、ロナルドもその後に続く。
乗り込む直前、もう一度だけ振り返った。
「ミリア嬢。」
「はい。」
「また会いましょう。」
その言葉に、ミリアは満面の笑みで応えた。
「はい。また会いましょう。」
馬車がゆっくりと走り出す。
窓から手を振るロナルドに、ミリアも何度も手を振り返した。
馬車が並木道の向こうへ消えても、しばらくその場を離れることはできなかった。
胸元には、ダーガトークの職人が丹精を込めて作り上げた、小さな木細工の小鳥。
その温もりに触れるたび、今日という一日が特別な思い出として心に刻まれていく。
きっと、また会える。
そんな温かな約束が、ミリアの胸を優しく満たしていた。
庭園には、夕暮れの柔らかな風が吹き抜ける。
花々は静かに揺れ、小鳥たちは帰るように空へ飛び立っていく。
花びらは、まるで二人の新しい出会いを祝福するように、風に乗って夕空へ舞っていた。




